僕は理数の人間です。誰がどうあってもそう答えるでしょう。数学や化学、物理のセンスを褒めてくれる人は多いです。

でも、僕自身の葛藤として、数学や化学、物理の知識や感性(あるかどうか知らんけどw)を自分のアドバンテージだとは思いますが、僕をこの境遇に連れてきてくれたのはこれじゃない。

じゃあ僕をここまで導いてくれたのは何なのか?

それは言語論理の力。世でいうところの国語力というやつですね。なんでもかんでも国語に押し付けるな、と怒りだす国語の先生がいるのはさておき。

大量の情報から必要な情報を抜き取り、その中でロジックを構築する。ネタが理数ならその構築にはもちろんその知識が必要だけど、その知識を繋ぐのは必ずしも数式だけでない。やはりロジックを紡ぐ言葉なのだ。その言葉の力が弱いことは単純に今の成績でなく、受験の、ひいては高等学問をやる上での障壁にしかならないのだ。

学理を修めるためにはもちろん数式などもあるが、究極的には言語によって伝えられる論理の掌握が必須なのだ。数学であっても科学であっても理由説明に全く言葉が介在しないなんてことはあり得ない。そして、新しい発見や問題解決を伝えるのはやはり言葉なのだ。自分の業績はもちろん式や図に現れるけど、説明は言葉に依るしかない。言葉の力が弱いということは、即、研究の一線からの脱落を意味するのだ。

更にこの10年近く主戦場にしてきた大学受験の観点から考える。理系科目において、言語論理の追跡がセンター数学の目指すところであり、国公立大の2次試験の数学はむしろその論理を紡ぐところを見られていると考えられる。2次試験の理科では長大なリード文から情報を汲み取り処理に繋げたり思考に移すことを見ていると考えてもいい。センター理科にもその兆候が見てとれる。ただの選抜だ、という意見は置いておいて、高等学問への接続と関門として大学受験を考えるならこういうことだろう。

こういうことを真剣に考えたとき、理系科目の専門的な素材で言語論理をやる前に育てておきたいのが国語力、特にジャンルで言えば評論文の読解。言語論理の結晶だろう。もちろん、より叙情的な文章にも素養がある方がいいだろうし、文化的な深みを伴う人物への成長に古典を活かすというのはあるだろう。ただ、今は論点がぼやけるので文学的素養の面については保留する。

理数教育における言語論理の力についてはこういう問題意識とともに過ごしてきた。そしてラボ開設の今、集う生徒たちの喫緊の課題としての国語、そして今後の言語論理の力の養成を図りたくて、国語の専門家として河井が信頼する方に来てもらった。点数はもちろん取れるようにしてあげたい。でもそれだけじゃない。本当の言語論理の力を持たせて社会で羽ばたかせられるように育てていきたい。

大学受験kawaiラボの国語教育、いや、言語論理教育はまだまだ始まりのとき。きっと言語論理と数理の力が合わせもつ、そういう生徒が社会で輝くことを目指していくことをここに宣言します。