今日は文系の小論文を書いてみました。ちょっとつかみどころのないテーマなので,問題設定をしながら書いていたら800字に来ちゃった,という感が拭えないのでお蔵入りしたいぐらいなんですが…。せっかく書いたし思い切って出してみよう。

<お題>
芸術には規則がなくてもよいか。(800字程度,大阪教育大学2012後期)

<河井の解答案>
 昨今,あいちトリエンナーレで問題となっている芸術の自由と公益の対立があるが,そもそも芸術に対する規制や自由とは一体どのように規定されるのか。まずこれを規定していかなければ芸術の規則の論は進まない。
 では芸術に対する規制や自由とは何であろうか。それは絵画や書道の各々の分野といった具体的な表現技法ではなく,芸術と社会の関わりにおける受容の観点から考える。芸術に対する受容は主にその作品の意匠と,作品が示すメッセージ性から受ける印象によって規定される。したがって,作品が提出されるとそれはその提出された先でオーディエンスによって鑑賞され,作品が批評される。その集団でなされる批評の集合体がその集団におけるその作品の受容と不受容が生じる。
 前段,私は単に集団と表現した。その集団が例えば一定の嗜好を持つ極めてクローズドな集まりであるとき,過激な表現であろうが反社会的な表現であろうがそれが戯れ,遊びとして受け入れられうる。そのような作品をよりオープンな集団に提示すると,その集団では不受容になることが大いにあり得る。この集団の性質による受容と不受容の合意の差異が生じることに対して,ゾーニングという形での障壁を作ることは必要である。芸術の自由を保障する一方,ゾーニングによる規制をするのは,むしろ規則がその自由を担保できると考えるからである。それはある集団に不受容になる作品を提示することで生じる反発を避けられるからである。
 作品の不受容は単純に人の集団の性質による不受容の場合もあるが,集団が形成される場を提供する立場にも依存する。例えば行政が提供する場においては,その公共性から通常の受容よりも高い公益性や道徳性が求められることになったとしてもなんら不思議ではない。重要なのはその場が求める質をきちんと説明し,場に集う集団との受容,不受容による衝突を避けることにある。それは場を形成する側の大きな責任である。このようなすり合わせによる規則こそが返って芸術の自由を担保するものである。

 

表現が提出された先で受け入れられるのか否か,それはクローズドな集団とオープンな集団で異なってくるし,また,その集団の成立背景にも依存するだろう,そこで受け入れられない芸術の自由を担保するためには,むしろゾーニングなどでその受け入れを擦り合わせよう,という論にしました。

ちょっと思っていることより尻切れとんぼ感が出てしまうのは,終盤字数足りん!となったことは正直に告白します。

今回のお題は非常に設定がアバウトです。そもそも芸術と規則という,素直に考えて最も結びつかない言葉が並べられているわけです。どうやっても,芸術への規則とは何かについて定義づけをする必要があります。今回はその規則とはその集団に受け入れられること,そのための制限と設定しました。これは単一の解ではなく,解答者自身が定義し,その定義に沿って論ずるところです。

おそらく,入試としては稚拙はともかく,自分なりに規則を定義づけし,その定義に沿って意見を叙述できれば合格点に達するのかな…,と考えています。大きなお題に対して問題設計をできるか否か,を見ているんでしょうね。

にしても今回は難しかった…。うかつにノリで「僕も書きます!」なんていうもんじゃないなぁ…。(ノリと勢い,伊達と酔狂とか言ってる報い,笑)