こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。最近は勉強の意義についての話が上がることが多く、安田先生のBlogトビタ先生のnote記事でも取り上げられていますね。併せて勉強時間についての話がちらほらと上がっていますね。僕も流行に乗っかる形でチラチラと書いてみようと思う訳です。

勉強の意義ってなんですか?と問われれば僕はやはり「好きなように生きる力を得るため」と答えるだろう。僕は大学受験指導の立場にいるので、「好きなように生きる=自分の思う職能を手に入れる」という流れが多い。それが思う分野でダイレクトに繋がらない科目だとしても、だ。自分のやりたい分野に進むためにはそれができる場に選ばれなければならないから、そこを通過するということとはどうしても不可分である。そして好きなように生きるためには大雑把ではあるが自ら稼ぐことが必要であり、そのためには就職があり、そのためには学歴はないよりあったほうがいいよね、というところがある。それを僕は端的には立身栄達のため、と言ってしまうのだが、結局これも何かと選ばれるようになる側面と選択する権利をもつという側面の両方を備えておこうよ、という一環でしかない。もちろん、学歴や就職だけがという論点は当然あるわけだが、周囲の大人として人生の備えをよりよくできるように、という考えは否定されるわけではない。

非常にアバウトではあるが、その実現のためにある勉強はいわゆる「読み書き算盤」である生きるための最低技能から人類の営為の積み重ねの知識の習得、人間社会を支える仕組みの社会的・科学的な基礎の習得へと必然と変容していく。その変容に伴い、「ここまでは絶対できないと」から「なるべくしっかりできる方がいい」「自分の主となる分野を軸に」となっていくのが非常に大雑把ではあるが、小中高での違いというか変化のように思う。

そうすると、勉強時間の捉え方についても大きく変容があって然るべきで、小学校や中学校ぐらいまでは学習習慣の獲得のための定量性として1日○○時間、という考え方は非常に大きいと思う。精神的にも発達段階にある中である種の義務的な時間数の消化から始めていくのは妥当性が高いと思う。小学校のうちはほぼこれだけで課題も対処できるが、中学生になると定期試験時の提出物という形でタスクリストが生じ、その消化が課題となる。この頃になるとやはり得意・不得意の有無は覆い隠せないものだと思われるので、タスク消化の時間の差異が明確化してくると思う。その段階で単純な時間による定量性からタスク消化に軸足が移っていかねばならない。つまり、仕上がらなければ終わってはならない、というフェーズである。もちろん、仕上げただけでは定着度の問題はあり、そこに対して自覚的になると完了させるフェーズから成果になるフェーズまで移行していけるのだと思う。高校生になる頃にはこの「成果になるまで」つまり科目の事項が定着するのに必要な時間が勉強時間であるという認識に移ってきてほしいのである。従って、高校生にもなって「○○時間勉強しました!」みたいな言い方は成績などによらずまだ成熟が足りないように感じるのだ。これは「○○時間勉強した」と言えば指導者に叱責されない。みたいな部分が大きい。なお、これは「○○ページやりました!」の物言いにも通じるものであり、その姿勢は僕にはとても危険なものに思われる。この辺を我々指導者は自覚的になり、意識のフェーズが変わるように接する、そういう取り組みが必要ではないか。なお、話を戻すが、ただこの定着というものは日常の学習では測りにくいところがあるので、その確認・点検と修正のためにテストや模試を使っていってもらいたいわけである。

勉強の意義だとか勉強時間のあり方だとかグダグダと述べたわけだが、人によってその微妙な匙加減は異なる。その微妙な匙加減ができる指導者でありたいといつも思うのだが、さて、どれだけできていることか、自問自答しながら日々の関わりを考えていきたいと思う。