Archives: 2021年5月27日

入試システムの選択

今日は、大学受験kawaiラボの河井です。昨夜(26日)にお騒がせした呟きとかその派生かつてあったエピソードで話していたことですが、指定校推薦(現在は学校推薦型選抜、と言いますが)の話題に触れました。これらの呟きと重複するところもあるかとは思いますが(まとめながら書きますしね)、お付き合いいただければ幸いです。

現在、入試には学校推薦型選抜(いわゆる指定校推薦)、総合型選抜(いわゆるAO)、公募制推薦(学校推薦の指定校型、公募制型と分けるようですが、便宜上分けてます)、一般選抜と区分することが多いと思います。非常にラフに説明すると、

・学校推薦型選抜:学校の評定+付帯条件(資格や特定科目の成績)を基に校内選考→書類・面接などで入学決定
・総合型選抜:アドミッション・ポリシーなどにある「求める学生像」に沿った選考、面接と小論文が主
・公募制推薦:関西では早期入試・秋入試とも言える学力検査が多い。学校によって違いが大きい。
・一般選抜:基本的に学力検査

と大分できます。いわゆる科目の勉強、という点でとてもざっくりと言うと(関西の事情が多分に含まれますが)この区分で言うと学校推薦型と総合型は学校のテストとそれに伴う評定が(もちろん、活動記録などの書類作成や小論文、面接対策は必要です)、公募制推薦と一般選抜は学校/学科ごとに要求される科目の入試問題が解ければ良い、というふうに分けられます。そこからの対応法については評定にこだわるならこう、とか、ペーパーテストにこだわるなら多少の取捨選択を厭わず、だったりとか、戦術と各人(指導者かもしれません)のポリシーにもよってくるでしょう。僕自身は特にペーパーテストにこだわるなら結構非選択科目などあっさり目にして必要なものにバイアスをかける方ですが、それも賛否両論あるでしょう。

さて、今回は勉強について戦略的にすることの賛否、というよりは方式選択の難しさについて力点を置きたいと思います。

指定校推薦を軸にする難しさはその枠組みの中では第1志望を狙うことが唐突に取り上げられたりするところにあります。つまり、本人が望まない形で受験機会が(あくまでその方式では、ですが)失われてしまうわけです。また、希望者が被ると選考がありますが、そこに漏れると選択できる学校が「残り物」になってしまう場合もあります(学校によっては成績上位から残っている中で順番にあてがわれる場合もありますが)。そうなると、その年に学校から提示された選択肢の学校の中から条件を満たすものを選ぶ、という形に行き着いてしまいがちです。指定校狙いで希望する学校・学科を取ることができなかったら総合型、公募、一般へと舵を切り直すのだと、やはり入試問題対応という点では遅れが隠せない場合が多く、ちょっと厳しいことが多いです。

一方で一般狙いを軸にしていて受験科目を軸に勉強を進めているが、学校の成績も(受験に使わない科目も含めて)卒なくできる場合には、取れるとも思っていなかった指定校推薦が取れることもあります。結果論として評定が足りており、また、競争をくぐり抜けることができた場合です。ただ、この路線の場合、キャパと他の制約から受験科目以外の力の入れ具合に差が出ることが多く、その場合は純粋に力勝負に出ることになってそのパターンの方が多いように感じます。もちろん、色々なわけがあって評定が足りないだとか学校が枠を持っていないという場合には一般勝負に打って出るしかありません。

このどちらがいいかについては、今はAO(総合型選抜)や学校推薦が増えているから…という世の風潮でもなく個性と意向で決めたらいいと僕は思うわけです。また、一般を「選んで行けるところに行けばいいからそんなしんどいことをしなくても…」とか「あなたには一般なんて無理」みたいにして指定校推薦を狙うことを押し付けるのはちょっと違うと感じます。あくまでも本人の行きたい方向と正直なところ、どのタイプの勉強が合うかという個性でしょう。(まぁ僕自身は高校生のころやな自分が指定校推薦を取れる努力をしろ、と言われたら「絶対無理、そんなにコツコツとした努力は死んでも無理」と答えてたでしょうね…。きれいに揃える、ってのがどうも苦手なんですよね。ただ、これも性格と好き嫌い苦笑)

さて、指定校推薦は基本的には校内の同級生と競うことで校内の枠を取ることが非常に重要です。これについてはかつてこんなことがありました。指定校推薦で8割がた進学する私立の子の指導をしてたことがあったのですが、高2まで狙ってた第1志望が高3で指定校を外されて枠が消滅しました(大学側から外されたわけです)。このときのその学校で起こったの疑心暗鬼。日々のクラスメートとの会話が常に腹の探り合いです。人間関係のヒビが垣間見える悲惨な件です。そうでなくても指定校選びでお互いを牽制するような言動というのは他の学校を含め、やはり多くみられてしまうのです。そのような在り方で本当にいいのかどうか、というと僕には疑問が残ります。(なお、それでも僕は裏をかかせて志望分野を1本釣りさせたましたが、相当の腹芸をさせることになりました。これを良しとするのかどうかってことです。)

僕の観測範囲だと指定校推薦や総合型の受験生は継続的な取り組み、例えば毎週の課題提出をコツコツというところに強みがあると感じます。一方で一般組は自分のフィールドの科目を力づくでねじ伏せるところに強みを見せる子が多いですね。この総合力と爆発力を善し悪しで比べることは難しい。社会的にはコツコツした継続が強い方が、というご意見もいただきましたが、アカデミアにいたことのある人間としてやはり爆発力、1点に集中する力で壁を撃ち抜く才能は非常に稀有なものと思いますし、会社が望むから、で学生の質を入学時から一様にするのは高等学問と研究の場たる大学としては敗北なんじゃないかなぁと感じます。また、多様性という意味では社会活動やスポーツが活きる人の総合型、コツコツと揃えてきた人の指定校推薦、主戦場の科目に強い人の一般とバランスよく枠組みがあるのがいいんだろうな、と個人的には思います。

と呟きを整理しながらグダグダと述べてきましたが、何よりもひとりひとりが自分の希望をもって、自分に備えたい力をつけるための大学を、自分の個性に合った勉強と方式で選ばれるように取り組めればと思います。


英語・国語というより言語の学びとその先

こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。中間テストが終わりかけてくる今日この頃、大阪は梅雨入りして天気が不安定ですが皆さまいかがお過ごしでしょうか。

さて、今日は英語学習の件から始めていくのですが、想定としては高校生の状況を想定していただけるとよいと思います。僕自身の英語学習に関しての考察の端緒は「文法と単語が分かれば背景知識がなくとも英文は読める」という数年前の論議でした。これに対して僕は思いっきり否定的です。例えば「democracy=民主主義」を棒暗記しても民主主義のシステムを知らなければ結局のところ単語テスト上の意味対応が取れているだけで、本当の理解に繋がるのか?という疑問が解消されないわけです。つまり、単純な対応だけでなくその言葉の表すものをわかるという意味においては背景知識がなければ英語というより物事の理解が進まないと考えています。となると、この問題は認知の問題にまで繋がってくると考えており、人生で出会うもの全てが背景知識となってくること、そしてその人生で出会うものとその吸収の差異をどのように埋めるのか、という永遠の課題が認識されてきます。

英語学習において兎にも角にも英単語、ということが盛んに言われ、確かに英単語を備えていると優位であるのは論を俟たないのですが、ではその単語学習については多くの指導者が単語帳を叫ぶわけです。僕自身は単語帳は2ページで窓から投げ捨てた不届きものであり、高2時代の英文解釈で辞書を引きながら覚えた単語しかダメだった口なので、文章で覚えるスタイルです。(単に単語帳が嫌いともいう笑)この差については雪平先生のツイートでも紹介されているように、単語帳の方が優位であるとされているのですが、これについても僕は少々疑問を持っているわけです。というのも、単語テストについてはさておき、この単語テストの対策が果たして本当に読解の中で活きるのだろうか?という疑問点です。

僕はこの疑問点に対して懐疑的で、単語のリストと物事の理解にリンクが張られてなければ役に立たないと考えています。現在、単語帳でうまくいく、と言っている先生方はそのリンクが自然と構築されたのではないかと思うのです。つまり、そのリンクがうまく作れないならば、それは人為的にでもそのリンクができるきっかけがないといけないのではないだろうか、それが英文読解でそのテーマについて知り、思索を巡らせて知識にしていく過程が担うべきところではないだろうか、と考えるわけです。そのテーマについて知り思索を巡らせた結果が背景知識になるのであろうと考えるわけです。

となると、ここまで述べてきたことは英単語の意味の把握と理解に関するところのことでありますが、英語の話に留まる話ではないわけです。現代文においても古文においても、言葉と意味は重大な関連性がありますし、例えば実存主義なんていうキーワードは現代文学習に踏み込まないとまぁ出会うことがないわけで、その理解やそのための思索というのは決して上述の英単語のときと変わらぬものであり、変わってはいけないものであり、なんなら一体になることができれば1番いいのですが、なかなかそこまで踏み込むことはままならないので、続きはあいぴー先生こと安田先生に…(こういうのをただの押し付けという笑)。

このように言語と付き合うことができる、というのは単に英語、国語の点数が、という話ではない。理社においても大きく効果を発揮する。私は化学が専門で、数学、物理も扱うという立場であるが、いずれの分野も(数式や図版ももちろん使うが)言葉によって説明がなされる。そしてその説明は本来重厚なものであり、それを読み解くことができるというのが大きな力である。高等学問にかかってくるとどこかで講義から文章による学び(+議論)に移行していく必要があるが、その一歩を踏み出す土台をつくることになる。それは入試問題で「しっかりと読んで考察する」タイプの問題にその一端が表れていると思いますし、その出来は処理力や思考力だけでは説明がつかない差異が見られます。その根本としてはそれほど大層なものではない定期テストでの「ちゃんと読めてないよ」という指摘が生じるところまで遡ることができると思いますが、そういった言葉に対する認識や向き合い方というのは単純な科目指導の枠組みを超えたところにあると思います。最近は科目のことそのもの、を考えるよりもっと土台となる言葉から始めて科目がスムーズになる、ということを考え、いいものにならないか、ということをずっと思案する、そういう日々を過ごしております。


勉強の意義とか時間とか

こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。最近は勉強の意義についての話が上がることが多く、安田先生のBlogトビタ先生のnote記事でも取り上げられていますね。併せて勉強時間についての話がちらほらと上がっていますね。僕も流行に乗っかる形でチラチラと書いてみようと思う訳です。

勉強の意義ってなんですか?と問われれば僕はやはり「好きなように生きる力を得るため」と答えるだろう。僕は大学受験指導の立場にいるので、「好きなように生きる=自分の思う職能を手に入れる」という流れが多い。それが思う分野でダイレクトに繋がらない科目だとしても、だ。自分のやりたい分野に進むためにはそれができる場に選ばれなければならないから、そこを通過するということとはどうしても不可分である。そして好きなように生きるためには大雑把ではあるが自ら稼ぐことが必要であり、そのためには就職があり、そのためには学歴はないよりあったほうがいいよね、というところがある。それを僕は端的には立身栄達のため、と言ってしまうのだが、結局これも何かと選ばれるようになる側面と選択する権利をもつという側面の両方を備えておこうよ、という一環でしかない。もちろん、学歴や就職だけがという論点は当然あるわけだが、周囲の大人として人生の備えをよりよくできるように、という考えは否定されるわけではない。

非常にアバウトではあるが、その実現のためにある勉強はいわゆる「読み書き算盤」である生きるための最低技能から人類の営為の積み重ねの知識の習得、人間社会を支える仕組みの社会的・科学的な基礎の習得へと必然と変容していく。その変容に伴い、「ここまでは絶対できないと」から「なるべくしっかりできる方がいい」「自分の主となる分野を軸に」となっていくのが非常に大雑把ではあるが、小中高での違いというか変化のように思う。

そうすると、勉強時間の捉え方についても大きく変容があって然るべきで、小学校や中学校ぐらいまでは学習習慣の獲得のための定量性として1日○○時間、という考え方は非常に大きいと思う。精神的にも発達段階にある中である種の義務的な時間数の消化から始めていくのは妥当性が高いと思う。小学校のうちはほぼこれだけで課題も対処できるが、中学生になると定期試験時の提出物という形でタスクリストが生じ、その消化が課題となる。この頃になるとやはり得意・不得意の有無は覆い隠せないものだと思われるので、タスク消化の時間の差異が明確化してくると思う。その段階で単純な時間による定量性からタスク消化に軸足が移っていかねばならない。つまり、仕上がらなければ終わってはならない、というフェーズである。もちろん、仕上げただけでは定着度の問題はあり、そこに対して自覚的になると完了させるフェーズから成果になるフェーズまで移行していけるのだと思う。高校生になる頃にはこの「成果になるまで」つまり科目の事項が定着するのに必要な時間が勉強時間であるという認識に移ってきてほしいのである。従って、高校生にもなって「○○時間勉強しました!」みたいな言い方は成績などによらずまだ成熟が足りないように感じるのだ。これは「○○時間勉強した」と言えば指導者に叱責されない。みたいな部分が大きい。なお、これは「○○ページやりました!」の物言いにも通じるものであり、その姿勢は僕にはとても危険なものに思われる。この辺を我々指導者は自覚的になり、意識のフェーズが変わるように接する、そういう取り組みが必要ではないか。なお、話を戻すが、ただこの定着というものは日常の学習では測りにくいところがあるので、その確認・点検と修正のためにテストや模試を使っていってもらいたいわけである。

勉強の意義だとか勉強時間のあり方だとかグダグダと述べたわけだが、人によってその微妙な匙加減は異なる。その微妙な匙加減ができる指導者でありたいといつも思うのだが、さて、どれだけできていることか、自問自答しながら日々の関わりを考えていきたいと思う。


理系の進路選択における大学のお金事情

こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。国語の安田先生が進路選択についてのブログをお書きでもう全くの正論で僕が横から口を出す隙のないものなのですが、それに研究費事情と積める経験についてレスポンスしましたのでもう少し補足的にご説明をしようかと思います。

理系、その中でも僕が属していた化学分野では実験の薬品や機材に大きくお金がかかります。その金額の桁が普通の生活からはかけ離れたものになるんですね。核磁気共鳴装置(NMR)なんかは非常に汎用の機材ですが、その性能によって大きく値段が違い、卓上型のものでも800万円とか、それなりの機種で3000万以上します。日常的に使用する試薬でも1瓶うん千円するのをたくさん、とかあります。僕があまり詳しくないバイオサイエンスではDNAだとかのサンプルが結構高いと聞きます。

「いきなりえらいお金の話しはるなぁ…」と思われたかもしれません。ですが、そのお金は私立だと学費からも賄われていきますが、それで足りるわけでもありません。ましてや国公立をや、です。これは科学研究費補助金などの研究費で賄われているわけですが、その各大学がとっている金額に大きな差があります。そして、その金額差が往々にして学生時代に積める経験の差、特に卒業研究〜大学院時期の経験の差になるわけです。そのため、研究費がどれくらい潤沢な大学なのか、ということは実は進路設計と目標設定に大きく関わることなのです。

僕が経験したことのある話をしましょう。ある大型機器、僕が学生時代だと資金力のある研究室では研究室に2,3台あって自由に使えるというものでしたが、研究員時代のところでは、学科で共有として解放されているのが1台、技官の人がついて依頼測定ができるものが別にあるのですが、その装置の自由度は大きく劣るわけです。これが日々積み重なっていくと、先述した学生時代の経験の差につながってくるわけです。

僕は某ベンチャーで採用のお手伝いもしたことがありますが、自分の出身大学事情だけでなく、面接で会ういろいろな大学の学生さんのお話を聞いて、やはり事情が随分違うところがあるな、と感じた次第です。そして、それが大阪の公立大学でさえ、その差を大きく感じたわけです。こういったことが僕が「経験を学力で買う」という、象徴的なフレーズにもなるわけです。

では実際その研究費はどれくらい差異があるのか?参考HP(金額)河合塾の記事採択件数のランキングなどをみてもらえるとよくわかるのですが、いわゆる有名大学=偏差値が高い大学が並ぶという現実があります。もちろん、総合大学と単科大学の違いなどもあるので、簡単にいうことができるわけではありませんが、こういった面を考慮するのは大きな枠組みの目標設定をする上ではひとつのモチベーションづくりにも関わると思います。

もちろん、単純にどの分野でも偏差値と業績が完全リンクするというわけでもなく、例えば有機ELで日本一と言われるのは山形大学の城戸教授であって研究設備もピカイチだったりするわけで、自身の方向性できちんといい場所を探してもらいたいな、と思います。そして、その目標設定が現実にできるよう、学力を備えていければいいかと思います。

大学受験kawaiラボでは大学受験の専門家としての見地だけでなく、(元)サイエンティストであったことも含めて進路設計のお手伝いも行っています。お気軽にご相談ください。お問い合わせはこちらから


2021年度最初の定期試験にむけて

今日は、大学受験kawaiラボの河井です。GWも終わり、今日(執筆日5/6)は車に乗ったら26 ºCの表示が出たりする気候の中、皆様いかがお過ごしでしょうか。

GWが明けたところで1学期中間テスト2週間前に入った、という声がちらほらと聞かれます。この春中学校→高校へと進学したところだと、例えば数学が2種類になったりだとかで科目数が大きくなったり、また、本格的に古典が始まったりと変化が大きいので、不安も募ることでしょう。中学1年だと初めての定期試験になりますので、やはり不安は伴うことだと思います。

古典の学習については、大学受験kawaiラボに出講を頂いている安田先生からお話し頂けるのでさておき、基本的には教科書と付随するワーク群をきちんと取り組んでできるようにする、ということが第一です。学年によって、部活動(大阪は現在停止中のはずですが)や初めての電車通学への適応などで使えるキャパシティ、得意・不得意、進路希望の方向性などなどの事情はありますが、まずは英語、数学、古典の理解と解答能力の向上に努めてもらえればと思います。科目の順序をつけるのは、と言われそうですが、最低限中の最低限、あとで我々が後押しして手遅れにならないためにこの積み重ねだけは、という思いでこの3つを挙げておきたいと思います。本記事で科目のアレコレとかどこからとかいう前に、1番強く申し上げておきたいことは、

定期試験で1回や2回失敗しても死ぬわけでもない

ということです。総合型選抜(旧AO)/学校推薦型選抜(旧指定校推薦)の評定が…、という話で「1回の些細なコケも許されない」という人がいますけど、努力した上での1回の失敗で取り返しの効かないことになることはほとんどおきえませんし、些細な失敗まで全て先回りできるわけでもありません。それよりも大切なことは、

失敗の内容を吟味し反省と復讐をした上で次にどのように備えるかを考えて実行する

ということです。テストを受ければ思っているよりできていないことが見つかることもあるでしょう。ならばテスト後の復習を多く組み込むことを考えるべきでしょうし、素直にワークなどの対策をしてもそれ以上の学習が必要な問題を出されることもあるでしょう(これについては賛否ありますが、進学校ではよくあることです)。そうしたら、テスト前10日程度でワークを終わらせて、発展的な学習を追加できるように次回のテストでは計画を改める必要があるでしょう。定期テストはあくまでも中期的な学習の見直し材料であり、それは予備校などが主催する模試でも本来変わることのないところです。ですが、過度に成功を追い求めるあまり、1回でも(指導者の)意に沿わない点数を取ることが悪、みたいな風潮が散見されるのは残念でありません。願わくば失敗も成功もいずれもが学習する生徒に資するものになるよう、指導者はナビゲートしていけるのが望ましいですね。

高1・中1は今の学校で初めての定期試験です。よくわからないことだらけでしょうが、まずはこれだけはしなきゃな、と思うものを積み重ねていき、その上で次をどうするか考えればそれでいいのです。失敗も、成功も、今後に向けた材料でしかないのですから、3年後の自分の理想像に向けて、第一歩にしていただければ幸いです。2年・3年の人も科目担当が違えばテストは違うので、また新たな気持ちでこの1年のテスト始めをしていただければと思います。

最後に3月末に自宅からそう遠くない吉野まで車で走ってみてきた桜をお裾分けです。