こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。中間テストが終わりかけてくる今日この頃、大阪は梅雨入りして天気が不安定ですが皆さまいかがお過ごしでしょうか。

さて、今日は英語学習の件から始めていくのですが、想定としては高校生の状況を想定していただけるとよいと思います。僕自身の英語学習に関しての考察の端緒は「文法と単語が分かれば背景知識がなくとも英文は読める」という数年前の論議でした。これに対して僕は思いっきり否定的です。例えば「democracy=民主主義」を棒暗記しても民主主義のシステムを知らなければ結局のところ単語テスト上の意味対応が取れているだけで、本当の理解に繋がるのか?という疑問が解消されないわけです。つまり、単純な対応だけでなくその言葉の表すものをわかるという意味においては背景知識がなければ英語というより物事の理解が進まないと考えています。となると、この問題は認知の問題にまで繋がってくると考えており、人生で出会うもの全てが背景知識となってくること、そしてその人生で出会うものとその吸収の差異をどのように埋めるのか、という永遠の課題が認識されてきます。

英語学習において兎にも角にも英単語、ということが盛んに言われ、確かに英単語を備えていると優位であるのは論を俟たないのですが、ではその単語学習については多くの指導者が単語帳を叫ぶわけです。僕自身は単語帳は2ページで窓から投げ捨てた不届きものであり、高2時代の英文解釈で辞書を引きながら覚えた単語しかダメだった口なので、文章で覚えるスタイルです。(単に単語帳が嫌いともいう笑)この差については雪平先生のツイートでも紹介されているように、単語帳の方が優位であるとされているのですが、これについても僕は少々疑問を持っているわけです。というのも、単語テストについてはさておき、この単語テストの対策が果たして本当に読解の中で活きるのだろうか?という疑問点です。

僕はこの疑問点に対して懐疑的で、単語のリストと物事の理解にリンクが張られてなければ役に立たないと考えています。現在、単語帳でうまくいく、と言っている先生方はそのリンクが自然と構築されたのではないかと思うのです。つまり、そのリンクがうまく作れないならば、それは人為的にでもそのリンクができるきっかけがないといけないのではないだろうか、それが英文読解でそのテーマについて知り、思索を巡らせて知識にしていく過程が担うべきところではないだろうか、と考えるわけです。そのテーマについて知り思索を巡らせた結果が背景知識になるのであろうと考えるわけです。

となると、ここまで述べてきたことは英単語の意味の把握と理解に関するところのことでありますが、英語の話に留まる話ではないわけです。現代文においても古文においても、言葉と意味は重大な関連性がありますし、例えば実存主義なんていうキーワードは現代文学習に踏み込まないとまぁ出会うことがないわけで、その理解やそのための思索というのは決して上述の英単語のときと変わらぬものであり、変わってはいけないものであり、なんなら一体になることができれば1番いいのですが、なかなかそこまで踏み込むことはままならないので、続きはあいぴー先生こと安田先生に…(こういうのをただの押し付けという笑)。

このように言語と付き合うことができる、というのは単に英語、国語の点数が、という話ではない。理社においても大きく効果を発揮する。私は化学が専門で、数学、物理も扱うという立場であるが、いずれの分野も(数式や図版ももちろん使うが)言葉によって説明がなされる。そしてその説明は本来重厚なものであり、それを読み解くことができるというのが大きな力である。高等学問にかかってくるとどこかで講義から文章による学び(+議論)に移行していく必要があるが、その一歩を踏み出す土台をつくることになる。それは入試問題で「しっかりと読んで考察する」タイプの問題にその一端が表れていると思いますし、その出来は処理力や思考力だけでは説明がつかない差異が見られます。その根本としてはそれほど大層なものではない定期テストでの「ちゃんと読めてないよ」という指摘が生じるところまで遡ることができると思いますが、そういった言葉に対する認識や向き合い方というのは単純な科目指導の枠組みを超えたところにあると思います。最近は科目のことそのもの、を考えるよりもっと土台となる言葉から始めて科目がスムーズになる、ということを考え、いいものにならないか、ということをずっと思案する、そういう日々を過ごしております。