軸や変数の設定をわかるということ

こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。期末テスト、終わってくる学校が出てきて問題を見たりしていますが、昨今平均的な子が解き終わることが物理的に不可能なテスト(70分で大問20個ある化学とか、50分で大問事実上10個ある物理とか)を作るのが流行りなのでしょうか、ちょっと作り手の粗さなり焦りなりが感じられるテストが増えてますね…。今日はそういう(ちょっとは言いたい)テストの愚痴の話ではなくて、テスト準備を見せてもらいながら感じた「問題/解答における文字や軸の設定」のお話です。なので数学にも通ずる話ですが、今日の素材は物理のお話です。

物理で投射運動の話をすると、だいたい下に書いたようなまとめにされていることが多いかと思います(タブレットで手書きだから下手なのは許して汗)。これらはそもそも等加速度運動の式v=v₀+at, x=v₀t+1/2at², v²-v₀²=2axの3式(もっと言えば3式目は2つの式からtを消去することで得られるのですが、まぁ便利なので)を小球の投げる状況ごとに適応したものでありますが、全暗記!と言われている人も多いことかと思います。

この公式の丸暗記でワークの基本問題は解けますし、高1の物理基礎で欠点を取ることはまぁ回避できますし、物理は取らないぞ、という人にはそれでとりあえず十分なのかもしれませんが、今後も物理とのお付き合いがあるとして、以下のような問題はどうでしょう?

この問題、実は先ほどお見せした公式通りに立式しようとするとちょっと困ったことになってしまいます。1問目は小球Bにとってはこの座標設定は公式通りにできるのですが、Aについては公式と向きは逆だし、場所は0スタートじゃないし…、と修正が必要になるのです。2問目は斜方投射の向きとしては座標設定が逆向きで、あと斜面とぶつかるところをどのように表すか、という問題が生じてきます。公式の機械的な適用では早くもこの段階でうまくいかないことが現れてくるのです。

公式導出が重要、と言いますが、そもそもこれらの公式は最もシンプルな表現になるように、ある意味で「恣意的に」座標設定などを行なっているのです。つまり、人間が問題解決のために最も良い設定を使っているわけです。もし、問題解決のために必要であれば変えればいいものですし、また、上記問題1のように2つの物体で都合が食い違う場合にはどちらかに合わせる必要が出てきます。そういった「諸事情」(と僕はよく言っているのですが)まで含めて、丁寧に取り扱いを紹介しておく必要が指導者側にあるでしょうし、また、その練習をしっかり積んでもらうように促していかないといけませんね。


「丁寧に説明する」「塾でやって帰る」がラボスタイル

こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。いくつかの話題で見かけること(リソースは聞かない!笑)から触発されて今日は記事を書いているのですが、それとセットで大学受験kawaiラボのスタイルについても改めてお話しできればと思っています。

○ 「丁寧に説明するのはよくない?」について

独学大全という本が流行るよりしばらく前から自学とかいう言葉が塾の先生たちの間で頻繁に見かけられるようになりました。その流れの中で時々、「丁寧に説明したら伸びない」とか「説明しないで考えさせるのが良い」という主張がチラチラと見えるようになりました。果たして本当にそうなのだろうか?

僕は通っていた中学校の状況や希望の進路とかあってかなり初期から塾なしで先取りの自学(課題は学校の先生にもらいに行ったり買ったりしてたのですが)をしており、その延長線上で塾なし(講習とかは参加してみたけど)で大学受験を経て現在に至ります(詳細割愛)。そういったことで自学で進めているとまぁ時間のかかること。おそらく器用な方なので新しいことを受け入れて自分の道具に変えるところは速い方だとは思いますが、入り組んだ問題などやっていると、特に世間で言う定石をそれほど知っているわけではないので、試行錯誤に極度に時間がかかった(その尊い犠牲が世界史とか英語とか…苦笑)ことを覚えています。

確かに、これが本来の学びであり、それくらい手間暇をかけて…、と言われればぐうの音も出ないわけですが、いろいろなものを切り詰めてようやっとこれだけ…では高校生としての生活が果たして成り立つのか?そこを少し緩和できるように、必要な説明を提供することは決して悪いことではないはずです。ところが、昨今では丁寧な説明=悪と言わんばかりの論調もそれなりに見受けられる。それはなぜか?

丁寧な説明によって納得してもらうと、それで終わってしまうことが多い。これが1番の理由です。だから丁寧な説明を悪者にする必要がない。当該の問題で説明をトレースするだけでなく、ちゃんと類題などでその考え方の実践を別にやればいいのだから。そしてワークとかそういったものは類題が連なっていることは多いので、そこまでの心配はいらない。そして、このままだと類題不足だな、と思うならそこでもう1問出すのが講師の腕の見せ所なんじゃないかな。そのあたりのことが足りていないから丁寧な説明をしない、教えないがいいんだ、に走ってしまうのだと個人的には感じている。

○ 「塾で勉強をするのは違う?」について

ちょっと前の話が長くなってしまった…。もう1つの話題、「家で誘惑するものがあるから塾で勉強するというのはおかしい」「真剣だったら誘惑とか関係ない」「自宅学習が本道だ」と言われる件。まぁ確かにこれは正論と言えば正論なんです。ただ、僕はこう言う正論を振り回す人は強過ぎる人と感じます。つまり、誘惑に対して自らを律することができ、そして、その律するということを他者にも求めすぎているのではないだろうか?と考えているわけです。

僕自身は家にいれば際限なく眠ります。睡眠と食事と教室であれこれで生活の99%ぐらい埋まってるんじゃないですかね。そういう人間なので物事をするとなると基本的に家を出てやる、というのが自分のこれまでもこれからも変わらない部分なんだと思います。

この話になると、僕はノマドワーカーってなんで存在するのか?ということを考えます。このご時世、Wi-Fiがあれば仕事ができるならカフェなどで仕事をしなくても巣ごもりで仕事をすればいいわけです。でも人はカフェで本を読んだり仕事をしたりする。大人だから、というのはアンフェアな返し方なのでやめましょう、ちゃんと理由を考えてみましょう、そうすると家だとくつろぐとか他のことをしちゃうとか、そういう理由が湧き上がってきます。(もちろん、カッコいいとかもあるでしょうけど)

と考えていくと、「人は場所で自らの振る舞いを規定する」という面があると思うのです。つまり、家は寛ぐ場所、外は頑張る場所、というふうに自分の中のスイッチが切り替わるのではないか?では自分のスイッチがオフにならないところで必要なことをやればいい、それには子ども・学生も大人も変わらないだろう、そういう考えに至っているわけです。そこで勉強する場所として塾を自らの中に規定してもらい、進めていきながら必要な助言であったり、解説であったり、課題であったりを提供する、いわゆるラボスタイルというのを確立していこうというのが今の原型になっているわけです。

○ 最後に(まとめ)

私たちはしっかりと自分の手で学習を進める、その中で必要なことは丁寧に説明し、演習を積んでもらって自分のものにしてもらいたい、そして、帰ったら今日の勉強は全部やってきたぞと言える、そういう環境の提供で成績への反映はもちろん、希望の進路の獲得だとか、一方でご家庭の負担軽減(これについては次ぐらいに)も実現できるような、そういう環境構築を行なっています。


問題集の周回がうまくいく人いかない人

こんばんは、大学受験kawaiラボの河井です。1学期期末テストが迫っている人が多い今日この頃、天気の不安定さと暑さに泣かされております。早くお天気落ち着かないかなぁ…。

今日は数学(そこ、しつこいって言わない!好きなもんで…)の勉強についてよくある話の1つ。○周やるor新しいのをやる、のお話をしたいと思います。「△周したらいけるっていわれた!」とかよく聞く話ですが、割と皆さん好きな話です…よね?

「スタンダード入試演習IAIIB」と「オリスタ入試演習数III」を10周やったら数学はほぼ満点!みたいなお話はよく流れます。非常に努力の跡が見える、そういう話ですし、美談になりますし、そう言う話は語り継がれることがとても多いです。これは定期試験における学校教材の4stepなどでも同じような話が言われます。そして、それでテストがうまくいかない子はちゃんとやってない…果たして本当にそうなのでしょうか?そういう問題提起なわけです。

その周回が正しいかどうかは実は人によります基礎的な考え方と取り扱いを習得すれば適用はお手のもの、というタイプの人はこの周回の勉強法で成果が出ます。未知の問題でも自然と習得している手法を使える人は、その手法の習得こそが勉強の根幹になるので、それこそ覚え込むような勢いの勉強がプラスになるわけです。

一方で真面目に周回をやればやるほど、問題と解答の対を作ってしまう人もいます。真面目に繰り返すことで記憶に問題と解答の文面ごと定着してしまうタイプがいます。そして、本人はそれを習得した、と感じてしまうため、その問題点には気付きません。極端な場合、ワークを5周繰り返して欠点を取ってしまうことさえ起こったことがあります。解いているノートを一見するだけではなかなか見分けがつかないこともあります。

この両極の結果が起こりがちなこの件、それを見抜くには新規の問題(類題)を解いてみて確認するのが1番ハッキリします。少し違うだけで固まってしまうようであれば間違いなく後者です。一方、いくつかの類題をやって問題なく進む場合は自分の現状のスタイルを崩す必要はありません。

では、覚えてしまうタイプの人はどうすればいいのか?基本的な考え方と取り扱い、いわゆる定石を知る、というところはどうしても欠くことができませんが、それを染み込ませ自分のものにする練習として、類題を豊富に解く方が上手くいくことがあります。そういった意味で、1周やって間違えた問題をもう1度やってできるようになっていたら、意図的にやるものを変えることをお勧めすることもあります。これは1回のテストでどうこう、というよりは長期的に付き合いながら見て、タイプを見ながら匙加減をしているところです。

現在、勉強に取り組みながら、イマイチ結果がついてこない、という人は、一度豊富な類題の触れた数で自分の手元を確立していく、ということを試してみてもいいかもしれませんよ。


テストで見るべきものは順位にあらず

今日は、大学受験kawaiラボの河井です。中間テストが終わって(二期制のところはまだかもですが)一部の模試は返却されて、その順位やら模試だと偏差値やら合格判定だとか、そういった話が色々出てくると思います。中間テストはその学校全体として受けるものですから、その順位で買った負けたと言っているのは切磋琢磨という意味では微笑ましい反面、それだけで大学進学のあれこれを語るには不十分ではあります。

先日、「入試システムの選択」でも触れましたが、定期試験というものは一定期間の学習内容の定着を測るものであり、(実力問題を混ぜたりすぐ先生もいますが)基本的には比較的狭い範囲指定をしたテストであるということです。科目によっては教科書+αの丸暗記を力づくでやって高得点を取っている場合(数学でも)もあります。また、文理選択後は同一科目でも難易度が著しく異なることもありますし、選択科目でそもそも試験の数が違うとかそういったことも起こり得ます。それでつくった順位だと、正直なところ「総論として、悪くはないね」ぐらいのことしか言えない、というのが率直な感想です。入試科目だけが全て、ではありませんが、入試どうこうの目安としては不十分であろうかと思います。

ここまでのテスト順位に対する反論はあくまでも大学受験の尺度に定期テストの校内順位を見ることが良策でないことをお伝えするために、その不備にあたるところを突いたのでありますが、こう言うと「いや、いい大学に行く子は全科目ちゃんとしている!」という反論が来ることでしょう。もちろんそういう人もいますが、一方でかなりドライに取捨選択している人もいます(是非はともかく、実は僕もその口で理数以外は最下位近いとかよくあった…。)。戦略上の選択として行なっている人もいれば、自分の興味関心の赴くままにバランス取りをサボりにサボるパターンもあるのですよね。僕はそういうのは微笑ましいと思うタイプなのですが、一部の真面目な大人からは嫌がられるようですし、全否定されることも少なくないようです。

おっと、話が逸れてしまった…。テストで本当にするべきことは新出事項の一定範囲の学習の達成度です。勉強をいかに規定していくかについての前稿でも触れましたが、テストでの間違った部分の検証と次の期間の学習における計画や復習の機会の確保に繋げることが1番大事です。これは模試でもさほど変わりません。ただし、受験に向けた模試では満点に対して間違った分を埋めるという復習というよりは、目標点数(特にマークは)に向けて足りない点数分埋める、と少し色が違ってきます。その微妙な匙加減は人によって違ってきますので、どう策定すればいいかは直接相談してもらいたいところです。

さて、模試についても一言。ある意味矛盾することを言いますが、高2までの模試で学年全体で受けるものについては中期的な目標として、順位を追いかけるのは実はそれほど悪いものでもないです。というのは、これまでの学習全体が反映しないといけない(進度が速い中高一貫校の場合ちょっとどころでないズレがありますが)ので、そのわかりやすい目標設定、モチベーションの部分で寄与するところが大きいからです。定期テストでもそうなのですが、入試の主要科目を中心にする統一のテストの中では狭い範囲では自分の順位、広くは偏差値というのは自分の学力を高めた指標として役立つところであるのは少なからず真実であります。

その一方で○○大に通るには、みたいな話をするのに単純に学校でどれくらい、というよりは世間に通用しているかどうか、から話を始めていくことになります。しかも、その○○大に通るために必要な条件(傾斜だとか、問題の構成だとか)は学校によって違うので、進研模試が高くてもダメじゃないね、ぐらいしか言えないものもありますし、云々、とこれもまた色々な学校事情がありますので、大学ごとの詳細は割愛させてください(必要な方は直接聞いてくださいね)。ただ、共通テストが始まってひとつ共通して言えるのは、マーク模試が私大入試と大きく乖離しかかっており、その偏差値が指標として使いづらくなっている、ということです(ここが今日1番大事なところ)。したがって共通テストに合わせられるからといって次第入試を突破できるとは言えない、学校ごとの構成のあれこれが反映しづらいというところが問題点ですので、当面、過去問の出来(+真っ正直な記述模試)から推察していくしかないでしょう。

短期的・中期的なところだけでなく、長期的な意味で成長し、目標を実現するために見るべきものを見て助言して促していけるような、そういう在り方を常に追求していきたいと思います。


勉強を時間やページ数で規定することの是と非

こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。今日も少々釘を刺すように発言してしまいましたが、勉強を時間数だけで規定したり量を語ったりする言説は非常に多いです。またはページ数や冊数で量の多寡を語る言説も多いですが、本当にそれでいいのか?と言うお話です。

この勉強量を規定することによって学習習慣をつけていこうという、学年的には大雑把に中学生前半までであると、1日○時間はやろう、と規定することはポジティブに働くと考えます。これは日々の習慣を変えることに大きな意味があるので、最初の第一歩としては非常に重要です。後述するようなタスクの達成度で変動的な要素を入れない方がむしろ効果的でしょう。このようなケースの場合だと、毎日ワークを各科目1ページというようにバランスをある程度取るべく、ページ数で規定するのもひとつの考え方であり、いずれも達成度にこだわるというより習慣化の要素の方が強く、また、段階的には習慣化ができれば定期テストなどでの一定の成果は見込まれるであろう、と考えられます。

その段階を超えて、高校生になってくるとどうでしょう。そして、受験生になってきてどうか。教科書を進めていく授業の中で傍用のワークを進め、知識のインプットと手法として定着させていく段階は量が効いてくるところは大いにあります。これはもちろんしっかりと思考を伴わせて学習をして欲しいのですが、思考もさることながら手を動かす経験値がそれなりにないと定着に至らない、という部分が強く現れるからです。そう言った意味においては量的に考えることは必要でしょう。

さて、この場合量で規定するとして、何の量をもって規定していくかという問題が生じます。学習の習慣化の段階では時間数で規定するのは有効な手段と述べましたが、高校生においてもそれは真であるのか。これについて僕はうまくいかない、と考えています。これはラボの生徒にもよく言うことですが、4stepなどのワークをやっていくと同じページ数でもIA、IIB、IIIとなるごとに1ページにかかる時間数が1.5〜2倍くらいになって、同じくらい勉強時間を費やしているのにタスクが溜まっていくことがよくあるのです。つまり、同じ時間数で勉強を規定すると、その時間で進む分量が少なくなってしまうことで必然的に課題が溜まっていく現象に陥るのです。

ではどうしていくのがいいのか。この段階では単純に時間数で語るよりはページ数の進捗で規定する方がベターであると考えます。本来は常に達成度で言いたいところですが、完了したかどうかだけでなく定着度などを含めての達成度となるとタスク完了はともかく、定着についてはセルフチェックしにくいところもあり、テストごとに測っていく方がやりやすいと思いますので、日々の取り組みでいえばあえてページ数の進捗を推すことになります。つまり、ページ数を期限までに(周回を含めて)規定して取り組み、中期的にテストで定着度を確認して、復習と次のテストまでの学習を進めて、というサイクルで進めていくことになります。

このようなサイクルを作っていこうとすると、どうしても時間数で勉強の設計が難しいところが出てきます。どうしても各ページで均一の時間を想定することになりがち(そこまで予見できなくて普通ですよ)なので、想定より時間がかかることも大いにあるでしょう。そこで自分の設計の中に遊び時間(アイドルタイム)といわれる空きを用意しておくことです。その空きの部分で想定とのズレを解消していくことが必要です。そうでないと、ズレがズレを生み、そのズレの積み重ねがストレス要因となって学習そのものを止めてしまうきっかけになりがちだからです。そこで、週に1日でも空きを意図的に入れることでズレの解消や余れば余暇に使ってよい、ぐらいにするのがいいと思います。

受験生にもなってくると、学校のタスクとテストに向けた達成だけでなく、自身の目標とそのための受験科目、その目標における科目間傾斜、自分の現状なども勘案した戦略、そういったことをひっくるめて日常を組み立てる必要に迫られます。この場合も単純に時間数で「各科目1時間ずつ」などとすると、目指す自分には近づいていくことができないでしょう。毎日少しずつやるもの、曜日のサイクルでいいもの、など状況だけでなく科目の特性まで考えて組み立てていくことで、真に目標達成のための取り組みになり得ると思います。そしてその取り組みを中期的に模試で点検・評価することで補正し、その繰り返しでもって目標達成に近づいてもらえればと思います。

という学習の組み立てにおける時間や量の考え方について述べてきましたが、読み返してみてもこれ難しいですよね(苦笑)。というところをカバーしていくためにも、学習をうまくコーディネートしていくアシストはあって良いと思いますので、必要と思ってくださる方はこちらまでお問い合わせくださいませ。

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入試に出る?出ない?

こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。随分と暑くなってきました。今日は車を走らせていると温度が35 ºCを表示していて、これで6月上旬ですか…ととてもうんざりした気分になりますね。急な気候の変動は体調に影響しやすいので、皆さまお大事にお過ごしくださいませ。

さて、今日は少しこちらでも言及しましたが、「入試に出る・出ない」論議です。「ここはあんまり入試には出ないので…」と言われるアレです。なんでもできるに越したことはありません、はい、おしまい!では芸がないので、もう少し具体例も挙げながらお話ししていきたいと思います。

まず「入試に出る・出ない」という話にはテストというものの性格もあって、限られた出題数では全範囲の全ての事項を含められない、という前提があります。例えば大学受験の数学だと文理系など差異はありますがおおよそ3大問〜6大問になります。その中に全てを入れ込むのは不可能ごとであることをあらかじめご承知おき頂いて、以降の話を見て頂ければと思います。(薄く広く入れている共通テストでもいくつかの項目、例えばIIBの軌跡と領域や二項定理の話題は多くは見掛けられない、あたりでご納得頂ければ。)

その前提条件の上で「入試に出る・でない」という件についてコメントしている多くの人は入試の出題タイトル、例えば

第1問:微分法
第2問:確率
第3問:ベクトル
第4問:積分法
第5問:整数
第6問:複素数平面

みたいなものを見て、統計的に出る/出ないを言っている場合です。それって本当にそれでいいのか?ということです。例えば次の例題。

この問題、普通は「三角関数」とか「三角関数の最大・最小」とタイトル付けされます。ですが、置き換えを使うと数Iでやる2次関数の最大・最小問題の軸の位置による場合わけに帰着されます。ですが、問題タイトルには「2次関数」の言葉は出てきません。それをもって「2次関数は2次試験にはあまり出ないから」とは決して言うことができません。

それではもう1つ、よくある数IIの微分の問題。数IIIだと関数のところがややこしくなります。

これもよくある問題ですが、微分して求めた導関数f’(x)がx=1で0になるから、でaの値を求めて、それからそのaの値でちゃんとx=1で極大になるかを確かめる、という、定期テストのときにはテンプレのように解いている問題です。これ、気づいていただけたでしょうか?「そのaの値でちゃんとx=1で極大になるかを確かめる」というところ、単なるお作法にしてしまう人が多いのですが、x=1がf’(x)=0の解になるからでaを求めるのは必要条件であり、十分性を担保するためにそのaで条件を満たすことを確認するのです。これでようやく必要十分条件として答えとして提示することができます。数学の問題はよく「必要十分条件となる答えを求める」というような言い方をされます。多くの問題が答えに辿り着こうとするとその必要十分性を追求していることになりますが、いくつかの問題は値を出すところは必要性しかできておらず、十分性の保証が必要になります。これが数Iの集合と論理のところで学ぶ必要条件・十分条件の話が埋まっているところです。しかし、この問題のタイトルは「微分法」になるわけです。集合と論理の話を入試に出ないと言ってしまうような浅はかな発言をしてはならないわけです。

したがって、多くの大学で数学I・A(場合の数と確率、整数の性質)・II・B(数列・ベクトル)・III(理系のみ)と範囲設定していますが、その全範囲から出うるし、メインテーマや見た目が違っても他の単元の手法・知識・論理が埋まっていることは往々としてあります。そういった意味では「ここは入試にはあんまり出ないから…」と特に高2までに言うことは慎んだ方が良いでしょう。

その一方で、我々講師は「ここは入試にはあんまり出ないから…」という発言をそこそこします(ちゃぶ台返し)。その場合は過去問を精査して、受験までの残り時間と現状を勘案して、取捨選択の手段としてそのようにスパッと言い切り型にしていることがあります。共通テストとの兼ね合いから好んで数IIIの特に微積分が出題されることは事実、ほか、大学ごとに多少あれこれあるのですが、目標達成のための取捨選択のためにその辺をひとつひとつ精査した方策としてお伝えしていますので、それくらいのつもりで聞いて頂けるとありがたいです。


入試システムの選択

今日は、大学受験kawaiラボの河井です。昨夜(26日)にお騒がせした呟きとかその派生かつてあったエピソードで話していたことですが、指定校推薦(現在は学校推薦型選抜、と言いますが)の話題に触れました。これらの呟きと重複するところもあるかとは思いますが(まとめながら書きますしね)、お付き合いいただければ幸いです。

現在、入試には学校推薦型選抜(いわゆる指定校推薦)、総合型選抜(いわゆるAO)、公募制推薦(学校推薦の指定校型、公募制型と分けるようですが、便宜上分けてます)、一般選抜と区分することが多いと思います。非常にラフに説明すると、

・学校推薦型選抜:学校の評定+付帯条件(資格や特定科目の成績)を基に校内選考→書類・面接などで入学決定
・総合型選抜:アドミッション・ポリシーなどにある「求める学生像」に沿った選考、面接と小論文が主
・公募制推薦:関西では早期入試・秋入試とも言える学力検査が多い。学校によって違いが大きい。
・一般選抜:基本的に学力検査

と大分できます。いわゆる科目の勉強、という点でとてもざっくりと言うと(関西の事情が多分に含まれますが)この区分で言うと学校推薦型と総合型は学校のテストとそれに伴う評定が(もちろん、活動記録などの書類作成や小論文、面接対策は必要です)、公募制推薦と一般選抜は学校/学科ごとに要求される科目の入試問題が解ければ良い、というふうに分けられます。そこからの対応法については評定にこだわるならこう、とか、ペーパーテストにこだわるなら多少の取捨選択を厭わず、だったりとか、戦術と各人(指導者かもしれません)のポリシーにもよってくるでしょう。僕自身は特にペーパーテストにこだわるなら結構非選択科目などあっさり目にして必要なものにバイアスをかける方ですが、それも賛否両論あるでしょう。

さて、今回は勉強について戦略的にすることの賛否、というよりは方式選択の難しさについて力点を置きたいと思います。

指定校推薦を軸にする難しさはその枠組みの中では第1志望を狙うことが唐突に取り上げられたりするところにあります。つまり、本人が望まない形で受験機会が(あくまでその方式では、ですが)失われてしまうわけです。また、希望者が被ると選考がありますが、そこに漏れると選択できる学校が「残り物」になってしまう場合もあります(学校によっては成績上位から残っている中で順番にあてがわれる場合もありますが)。そうなると、その年に学校から提示された選択肢の学校の中から条件を満たすものを選ぶ、という形に行き着いてしまいがちです。指定校狙いで希望する学校・学科を取ることができなかったら総合型、公募、一般へと舵を切り直すのだと、やはり入試問題対応という点では遅れが隠せない場合が多く、ちょっと厳しいことが多いです。

一方で一般狙いを軸にしていて受験科目を軸に勉強を進めているが、学校の成績も(受験に使わない科目も含めて)卒なくできる場合には、取れるとも思っていなかった指定校推薦が取れることもあります。結果論として評定が足りており、また、競争をくぐり抜けることができた場合です。ただ、この路線の場合、キャパと他の制約から受験科目以外の力の入れ具合に差が出ることが多く、その場合は純粋に力勝負に出ることになってそのパターンの方が多いように感じます。もちろん、色々なわけがあって評定が足りないだとか学校が枠を持っていないという場合には一般勝負に打って出るしかありません。

このどちらがいいかについては、今はAO(総合型選抜)や学校推薦が増えているから…という世の風潮でもなく個性と意向で決めたらいいと僕は思うわけです。また、一般を「選んで行けるところに行けばいいからそんなしんどいことをしなくても…」とか「あなたには一般なんて無理」みたいにして指定校推薦を狙うことを押し付けるのはちょっと違うと感じます。あくまでも本人の行きたい方向と正直なところ、どのタイプの勉強が合うかという個性でしょう。(まぁ僕自身は高校生のころやな自分が指定校推薦を取れる努力をしろ、と言われたら「絶対無理、そんなにコツコツとした努力は死んでも無理」と答えてたでしょうね…。きれいに揃える、ってのがどうも苦手なんですよね。ただ、これも性格と好き嫌い苦笑)

さて、指定校推薦は基本的には校内の同級生と競うことで校内の枠を取ることが非常に重要です。これについてはかつてこんなことがありました。指定校推薦で8割がた進学する私立の子の指導をしてたことがあったのですが、高2まで狙ってた第1志望が高3で指定校を外されて枠が消滅しました(大学側から外されたわけです)。このときのその学校で起こったの疑心暗鬼。日々のクラスメートとの会話が常に腹の探り合いです。人間関係のヒビが垣間見える悲惨な件です。そうでなくても指定校選びでお互いを牽制するような言動というのは他の学校を含め、やはり多くみられてしまうのです。そのような在り方で本当にいいのかどうか、というと僕には疑問が残ります。(なお、それでも僕は裏をかかせて志望分野を1本釣りさせたましたが、相当の腹芸をさせることになりました。これを良しとするのかどうかってことです。)

僕の観測範囲だと指定校推薦や総合型の受験生は継続的な取り組み、例えば毎週の課題提出をコツコツというところに強みがあると感じます。一方で一般組は自分のフィールドの科目を力づくでねじ伏せるところに強みを見せる子が多いですね。この総合力と爆発力を善し悪しで比べることは難しい。社会的にはコツコツした継続が強い方が、というご意見もいただきましたが、アカデミアにいたことのある人間としてやはり爆発力、1点に集中する力で壁を撃ち抜く才能は非常に稀有なものと思いますし、会社が望むから、で学生の質を入学時から一様にするのは高等学問と研究の場たる大学としては敗北なんじゃないかなぁと感じます。また、多様性という意味では社会活動やスポーツが活きる人の総合型、コツコツと揃えてきた人の指定校推薦、主戦場の科目に強い人の一般とバランスよく枠組みがあるのがいいんだろうな、と個人的には思います。

と呟きを整理しながらグダグダと述べてきましたが、何よりもひとりひとりが自分の希望をもって、自分に備えたい力をつけるための大学を、自分の個性に合った勉強と方式で選ばれるように取り組めればと思います。


英語・国語というより言語の学びとその先

こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。中間テストが終わりかけてくる今日この頃、大阪は梅雨入りして天気が不安定ですが皆さまいかがお過ごしでしょうか。

さて、今日は英語学習の件から始めていくのですが、想定としては高校生の状況を想定していただけるとよいと思います。僕自身の英語学習に関しての考察の端緒は「文法と単語が分かれば背景知識がなくとも英文は読める」という数年前の論議でした。これに対して僕は思いっきり否定的です。例えば「democracy=民主主義」を棒暗記しても民主主義のシステムを知らなければ結局のところ単語テスト上の意味対応が取れているだけで、本当の理解に繋がるのか?という疑問が解消されないわけです。つまり、単純な対応だけでなくその言葉の表すものをわかるという意味においては背景知識がなければ英語というより物事の理解が進まないと考えています。となると、この問題は認知の問題にまで繋がってくると考えており、人生で出会うもの全てが背景知識となってくること、そしてその人生で出会うものとその吸収の差異をどのように埋めるのか、という永遠の課題が認識されてきます。

英語学習において兎にも角にも英単語、ということが盛んに言われ、確かに英単語を備えていると優位であるのは論を俟たないのですが、ではその単語学習については多くの指導者が単語帳を叫ぶわけです。僕自身は単語帳は2ページで窓から投げ捨てた不届きものであり、高2時代の英文解釈で辞書を引きながら覚えた単語しかダメだった口なので、文章で覚えるスタイルです。(単に単語帳が嫌いともいう笑)この差については雪平先生のツイートでも紹介されているように、単語帳の方が優位であるとされているのですが、これについても僕は少々疑問を持っているわけです。というのも、単語テストについてはさておき、この単語テストの対策が果たして本当に読解の中で活きるのだろうか?という疑問点です。

僕はこの疑問点に対して懐疑的で、単語のリストと物事の理解にリンクが張られてなければ役に立たないと考えています。現在、単語帳でうまくいく、と言っている先生方はそのリンクが自然と構築されたのではないかと思うのです。つまり、そのリンクがうまく作れないならば、それは人為的にでもそのリンクができるきっかけがないといけないのではないだろうか、それが英文読解でそのテーマについて知り、思索を巡らせて知識にしていく過程が担うべきところではないだろうか、と考えるわけです。そのテーマについて知り思索を巡らせた結果が背景知識になるのであろうと考えるわけです。

となると、ここまで述べてきたことは英単語の意味の把握と理解に関するところのことでありますが、英語の話に留まる話ではないわけです。現代文においても古文においても、言葉と意味は重大な関連性がありますし、例えば実存主義なんていうキーワードは現代文学習に踏み込まないとまぁ出会うことがないわけで、その理解やそのための思索というのは決して上述の英単語のときと変わらぬものであり、変わってはいけないものであり、なんなら一体になることができれば1番いいのですが、なかなかそこまで踏み込むことはままならないので、続きはあいぴー先生こと安田先生に…(こういうのをただの押し付けという笑)。

このように言語と付き合うことができる、というのは単に英語、国語の点数が、という話ではない。理社においても大きく効果を発揮する。私は化学が専門で、数学、物理も扱うという立場であるが、いずれの分野も(数式や図版ももちろん使うが)言葉によって説明がなされる。そしてその説明は本来重厚なものであり、それを読み解くことができるというのが大きな力である。高等学問にかかってくるとどこかで講義から文章による学び(+議論)に移行していく必要があるが、その一歩を踏み出す土台をつくることになる。それは入試問題で「しっかりと読んで考察する」タイプの問題にその一端が表れていると思いますし、その出来は処理力や思考力だけでは説明がつかない差異が見られます。その根本としてはそれほど大層なものではない定期テストでの「ちゃんと読めてないよ」という指摘が生じるところまで遡ることができると思いますが、そういった言葉に対する認識や向き合い方というのは単純な科目指導の枠組みを超えたところにあると思います。最近は科目のことそのもの、を考えるよりもっと土台となる言葉から始めて科目がスムーズになる、ということを考え、いいものにならないか、ということをずっと思案する、そういう日々を過ごしております。


勉強の意義とか時間とか

こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。最近は勉強の意義についての話が上がることが多く、安田先生のBlogトビタ先生のnote記事でも取り上げられていますね。併せて勉強時間についての話がちらほらと上がっていますね。僕も流行に乗っかる形でチラチラと書いてみようと思う訳です。

勉強の意義ってなんですか?と問われれば僕はやはり「好きなように生きる力を得るため」と答えるだろう。僕は大学受験指導の立場にいるので、「好きなように生きる=自分の思う職能を手に入れる」という流れが多い。それが思う分野でダイレクトに繋がらない科目だとしても、だ。自分のやりたい分野に進むためにはそれができる場に選ばれなければならないから、そこを通過するということとはどうしても不可分である。そして好きなように生きるためには大雑把ではあるが自ら稼ぐことが必要であり、そのためには就職があり、そのためには学歴はないよりあったほうがいいよね、というところがある。それを僕は端的には立身栄達のため、と言ってしまうのだが、結局これも何かと選ばれるようになる側面と選択する権利をもつという側面の両方を備えておこうよ、という一環でしかない。もちろん、学歴や就職だけがという論点は当然あるわけだが、周囲の大人として人生の備えをよりよくできるように、という考えは否定されるわけではない。

非常にアバウトではあるが、その実現のためにある勉強はいわゆる「読み書き算盤」である生きるための最低技能から人類の営為の積み重ねの知識の習得、人間社会を支える仕組みの社会的・科学的な基礎の習得へと必然と変容していく。その変容に伴い、「ここまでは絶対できないと」から「なるべくしっかりできる方がいい」「自分の主となる分野を軸に」となっていくのが非常に大雑把ではあるが、小中高での違いというか変化のように思う。

そうすると、勉強時間の捉え方についても大きく変容があって然るべきで、小学校や中学校ぐらいまでは学習習慣の獲得のための定量性として1日○○時間、という考え方は非常に大きいと思う。精神的にも発達段階にある中である種の義務的な時間数の消化から始めていくのは妥当性が高いと思う。小学校のうちはほぼこれだけで課題も対処できるが、中学生になると定期試験時の提出物という形でタスクリストが生じ、その消化が課題となる。この頃になるとやはり得意・不得意の有無は覆い隠せないものだと思われるので、タスク消化の時間の差異が明確化してくると思う。その段階で単純な時間による定量性からタスク消化に軸足が移っていかねばならない。つまり、仕上がらなければ終わってはならない、というフェーズである。もちろん、仕上げただけでは定着度の問題はあり、そこに対して自覚的になると完了させるフェーズから成果になるフェーズまで移行していけるのだと思う。高校生になる頃にはこの「成果になるまで」つまり科目の事項が定着するのに必要な時間が勉強時間であるという認識に移ってきてほしいのである。従って、高校生にもなって「○○時間勉強しました!」みたいな言い方は成績などによらずまだ成熟が足りないように感じるのだ。これは「○○時間勉強した」と言えば指導者に叱責されない。みたいな部分が大きい。なお、これは「○○ページやりました!」の物言いにも通じるものであり、その姿勢は僕にはとても危険なものに思われる。この辺を我々指導者は自覚的になり、意識のフェーズが変わるように接する、そういう取り組みが必要ではないか。なお、話を戻すが、ただこの定着というものは日常の学習では測りにくいところがあるので、その確認・点検と修正のためにテストや模試を使っていってもらいたいわけである。

勉強の意義だとか勉強時間のあり方だとかグダグダと述べたわけだが、人によってその微妙な匙加減は異なる。その微妙な匙加減ができる指導者でありたいといつも思うのだが、さて、どれだけできていることか、自問自答しながら日々の関わりを考えていきたいと思う。


理系の進路選択における大学のお金事情

こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。国語の安田先生が進路選択についてのブログをお書きでもう全くの正論で僕が横から口を出す隙のないものなのですが、それに研究費事情と積める経験についてレスポンスしましたのでもう少し補足的にご説明をしようかと思います。

理系、その中でも僕が属していた化学分野では実験の薬品や機材に大きくお金がかかります。その金額の桁が普通の生活からはかけ離れたものになるんですね。核磁気共鳴装置(NMR)なんかは非常に汎用の機材ですが、その性能によって大きく値段が違い、卓上型のものでも800万円とか、それなりの機種で3000万以上します。日常的に使用する試薬でも1瓶うん千円するのをたくさん、とかあります。僕があまり詳しくないバイオサイエンスではDNAだとかのサンプルが結構高いと聞きます。

「いきなりえらいお金の話しはるなぁ…」と思われたかもしれません。ですが、そのお金は私立だと学費からも賄われていきますが、それで足りるわけでもありません。ましてや国公立をや、です。これは科学研究費補助金などの研究費で賄われているわけですが、その各大学がとっている金額に大きな差があります。そして、その金額差が往々にして学生時代に積める経験の差、特に卒業研究〜大学院時期の経験の差になるわけです。そのため、研究費がどれくらい潤沢な大学なのか、ということは実は進路設計と目標設定に大きく関わることなのです。

僕が経験したことのある話をしましょう。ある大型機器、僕が学生時代だと資金力のある研究室では研究室に2,3台あって自由に使えるというものでしたが、研究員時代のところでは、学科で共有として解放されているのが1台、技官の人がついて依頼測定ができるものが別にあるのですが、その装置の自由度は大きく劣るわけです。これが日々積み重なっていくと、先述した学生時代の経験の差につながってくるわけです。

僕は某ベンチャーで採用のお手伝いもしたことがありますが、自分の出身大学事情だけでなく、面接で会ういろいろな大学の学生さんのお話を聞いて、やはり事情が随分違うところがあるな、と感じた次第です。そして、それが大阪の公立大学でさえ、その差を大きく感じたわけです。こういったことが僕が「経験を学力で買う」という、象徴的なフレーズにもなるわけです。

では実際その研究費はどれくらい差異があるのか?参考HP(金額)河合塾の記事採択件数のランキングなどをみてもらえるとよくわかるのですが、いわゆる有名大学=偏差値が高い大学が並ぶという現実があります。もちろん、総合大学と単科大学の違いなどもあるので、簡単にいうことができるわけではありませんが、こういった面を考慮するのは大きな枠組みの目標設定をする上ではひとつのモチベーションづくりにも関わると思います。

もちろん、単純にどの分野でも偏差値と業績が完全リンクするというわけでもなく、例えば有機ELで日本一と言われるのは山形大学の城戸教授であって研究設備もピカイチだったりするわけで、自身の方向性できちんといい場所を探してもらいたいな、と思います。そして、その目標設定が現実にできるよう、学力を備えていければいいかと思います。

大学受験kawaiラボでは大学受験の専門家としての見地だけでなく、(元)サイエンティストであったことも含めて進路設計のお手伝いも行っています。お気軽にご相談ください。お問い合わせはこちらから