Archives: 2019年11月17日

壁の向こう側の勉強

ちょっとこいつ,何言ってるかわからない。そう言われることを覚悟して書きますね。

旧帝大とか東工大,一橋大に向けた勉強,私立でいうなら早慶とか。そういったところを目指す勉強は壁の向こう側に至っていないと苦しいな,と感じます。その壁の向こう側の勉強ができれば,高校入試でも大阪のC問題とか,あと,神奈川の特色入試や東京の自校作成などの高得点突破にも通じるところがあると思います。

僕は理数系の人間なので,数学(他科目も変わらないけど,話しやすい気がするので)で話を進めよう。

数学の勉強はまずは定義を知り,これまでの知識と定義から導かれる定理や性質を学ぶ。そして,4stepなどのワークでその基本的な運用をつかむ,その発展形をチャートや受験用の問題集で取り組んでやり方をマスターしていく…。

非常にザクッとしてますが,数学の勉強といえばおおよそこのイメージを持つ人が多いと思いますし,この流れで勉強してる人が多いことでしょう。

でも,いずれ頭打ちがきます。頭打ちなんて来ないぞ,という人は実は知らず知らずのうちに壁を超えている場合です。

頭打ち,と言いましたが,センターでそれなりに高得点が取れますし,上位大学にスッと入れることの方が多いです。ただ,その先があるということです。

それは1つ1つの原理や法則をどういうことか,と深く考え,ただのツールと解き方にすることなく取り組むというもの。そして,1つ1つの問題を自分の手で解きほぐし,どのやり方を,ではなく,何ができるだろう,これをやってみようかなとチャレンジしていくトライアンドエラーの学び。

理科ではこれに加えて現象や実験を記述した文章を読み込み,その情報を整理・抽出し,何ができるか考える,言語論理と科学的思考の融合が必要になります。ただただ公式や法則の使い方,に走っていったのではどうしてもこの手の問題に太刀打ちできない。

使い方は使い方で必要,原理原則だけでいきなり使えない人の方が多い。そこに異論はないですし,使い方をしっかり見せて,それをモノにしないといけない,それは前提。でもそれだけではない,そういう勉強に踏み込んでいって,そして,視界が開けてようやっとたどり着く境地。

そんな勉強に取り組んでいけるようにしていきたいですね。


塾で人生が変わった卒業生の話

人生を変えるために塾を探す人は少ないけども,そこでの出会い,変化が人に変化をもたらすことはいっぱいある。明らかに変わった!という子もいれば,非常にナチュラルな変化なので,本人さえ自然だと思っていることもある(思い返せば…的な変化ですね)。今日はその中でも劇的すぎる変化を今尚続けている子の話を。

その彼は卓球がとても強く,なんかの大会で優勝したりするくらい,なんなら卓球だけで大学に行けるくらいだった。でもスポーツで大学に行くと,やはり故障とかした時に在学し続けにくいらしい。それで,自力での大学進学を目指した勉強に切り替えることになった。

彼は中堅どころの高校に行ってたのだけど,「どうやって入ったの?」と言いたくなるくらいの惨状だった。そりゃあ卓球漬けでクラブチームまでやってればそりゃそうか,とも思うけど。(後で聞いたらその高校に入ったことも周りは驚くくらいだったらしい。)高校入試偏差値50は大学受験偏差値40と同じ,とか言われたりするけど,英数とももう10ずつ少ない感じだった。

ただ,生物だけはすこぶる相性が良かったのか,非常に楽しそうにやっていた。生物ともう1科目とか,生物のみの受験とかあるのも知ってたので,「生物,死ぬ気でやって偏差値60にしろよ,そうしたら自己推薦文とか考えてやろう」と煽ってみたのだった。1科目で面接付きはちょっと厳しいかも,と思いつつ,これで引っ張れば生物数学の2科でなんとかなれば,という気持ちであった(なお,英語は中1〜2レベルからやり直さなければならず,絶望的なので事実上放棄)。

どうなることやら,と思っていたらあれよあれよと生物だけは成績が上がり,生物だけは国公立上位クラスと競っていけるくらいまで育った。覚えるためなら整理ノートを10回でもやり,ワークを解き続け,おかげで他の科目のせいで留年しかけるくらいやってた。もはや執念。その気合いに免じて,ヒアリングの末,99%清書以外僕が書いたと言って過言でない自己推薦文とともに出願した。

生物のテストはできたのであろう,なんとその大学の1次試験を突破したのだ。滑り止めの生物数学2科は箸にも棒にもかからなかったのに。そこでサイエンスとしての受け答えを教え,何があっても開き直って,力が足りないと言われたら「気合いで埋めます!」と答えろ,と言い含め,元気よく出陣させた。

面接でいろいろやり取りして,「この自己推薦文,自分で書いてないやろ?笑」と突っ込まれたらしい。そのとき彼は,「塾で河井先生という方に書いてもらいました!そちらの先生とは同期とのことです!」と開き直ったらしい。こりゃあ落ちるよな(苦笑)…。

ところが,合格!

生物の偏差値=英語の偏差値+数学の偏差値,のような彼で留年も危惧されたのですが,なんだかんだいって生物研究に精を出しています。中学生より英語ができなかった彼が,英語の論文を読みながら研究するようになるなんて…,おじさん泣いちゃうぞ,みたいな感じです。論文も一流誌に掲載されるかも,とのことですし,大学院進学も勧められるほどになっていると聞いています。

こんな風に人生を変えることもある大学受験への道,全力で取り組むのは悪くないと思いませんか?


よりによってそれ蹴るか?このバカチンが!

というバカチンは僕のことでして(笑)

さっき電車から「爆裂個人塾長座談会閲覧所」でしゃべってしみじみと思い出したあのこと。もうあれから6年くらい経つんですね。

僕は最初のベンチャーを2年で辞めて、当時研究部署を作るべく共同研究を立てようとしていた大学の研究室のポスドクになった。

予算も何もないところに(だから産学連携の研究費熱を上げていたのだけど)ポスドクすることにしちゃったからこれはまずい!となって29歳にしてバイト探し。

その境遇で「何できる?」となって塾で働き始めた。そのチョイスも大阪の南は人が少ないから戦力として大事にされそうだけ。で、最初に電話くれたところに即決。

うん、考えなさすぎ。

その生活を3年やってると、学者以上に教えることの方が適性あるのもわかってきたし、教育の方がずっと楽しかった。その教室はガンガン高校生が増えて、ついてくる子もいて。

で運命の3年目。

3年で常勤ポストにつけなかったら、自分は向いてないと諦めようと思ってた。そこにその大学の常勤の特任講師の話があった。でもやっぱりこの子たちを放って辞められない、そう思って蹴った。(もちろん、実家の家計とか体調という理由がなかったわけではないのだけど)

この話すると10人が10人、アホやなんやと言ってくれます(笑)でも、今の楽しさを考えても間違ってない、正解!と思ってるけど。

ちょっとしたkawaiラボの、それより前の物語でした。


理数の塾だからこそ国語教育を真剣に

僕は理数の人間です。誰がどうあってもそう答えるでしょう。数学や化学、物理のセンスを褒めてくれる人は多いです。

でも、僕自身の葛藤として、数学や化学、物理の知識や感性(あるかどうか知らんけどw)を自分のアドバンテージだとは思いますが、僕をこの境遇に連れてきてくれたのはこれじゃない。

じゃあ僕をここまで導いてくれたのは何なのか?

それは言語論理の力。世でいうところの国語力というやつですね。なんでもかんでも国語に押し付けるな、と怒りだす国語の先生がいるのはさておき。

大量の情報から必要な情報を抜き取り、その中でロジックを構築する。ネタが理数ならその構築にはもちろんその知識が必要だけど、その知識を繋ぐのは必ずしも数式だけでない。やはりロジックを紡ぐ言葉なのだ。その言葉の力が弱いことは単純に今の成績でなく、受験の、ひいては高等学問をやる上での障壁にしかならないのだ。

学理を修めるためにはもちろん数式などもあるが、究極的には言語によって伝えられる論理の掌握が必須なのだ。数学であっても科学であっても理由説明に全く言葉が介在しないなんてことはあり得ない。そして、新しい発見や問題解決を伝えるのはやはり言葉なのだ。自分の業績はもちろん式や図に現れるけど、説明は言葉に依るしかない。言葉の力が弱いということは、即、研究の一線からの脱落を意味するのだ。

更にこの10年近く主戦場にしてきた大学受験の観点から考える。理系科目において、言語論理の追跡がセンター数学の目指すところであり、国公立大の2次試験の数学はむしろその論理を紡ぐところを見られていると考えられる。2次試験の理科では長大なリード文から情報を汲み取り処理に繋げたり思考に移すことを見ていると考えてもいい。センター理科にもその兆候が見てとれる。ただの選抜だ、という意見は置いておいて、高等学問への接続と関門として大学受験を考えるならこういうことだろう。

こういうことを真剣に考えたとき、理系科目の専門的な素材で言語論理をやる前に育てておきたいのが国語力、特にジャンルで言えば評論文の読解。言語論理の結晶だろう。もちろん、より叙情的な文章にも素養がある方がいいだろうし、文化的な深みを伴う人物への成長に古典を活かすというのはあるだろう。ただ、今は論点がぼやけるので文学的素養の面については保留する。

理数教育における言語論理の力についてはこういう問題意識とともに過ごしてきた。そしてラボ開設の今、集う生徒たちの喫緊の課題としての国語、そして今後の言語論理の力の養成を図りたくて、国語の専門家として河井が信頼する方に来てもらった。点数はもちろん取れるようにしてあげたい。でもそれだけじゃない。本当の言語論理の力を持たせて社会で羽ばたかせられるように育てていきたい。

大学受験kawaiラボの国語教育、いや、言語論理教育はまだまだ始まりのとき。きっと言語論理と数理の力が合わせもつ、そういう生徒が社会で輝くことを目指していくことをここに宣言します。


子どもの受験はリベンジでなく

去年、Twitterでも紹介したのですが、こんなことを西大和学園の先生が仰ってたそうです。

「お母さんやお父さんの今までの人生におけるリベンジを、子どもの人生でしようとしないでください。ご自身のリベンジはご自身の人生で行ってください。子どもの受験は、子どもの人生です。子ども自身に闘わせてあげてください。」

家族もですし僕ら塾講師もですが、ついつい、本人のためにと思って考えてることが、価値観押し付けてるかも…?になってるときがありますね。

押しつけにならないように気をつけながらも、常に生徒たちの未来のために、を考え続けていきます。


化学屋さんから割合や比の話をしよう

この間、僕も参加している「爆裂個人塾長会議」でも話題になったのですが、割合とか比の話って本当に大切。

僕は化学の人間なので化学のことをすぐに言い出しますが、化学反応式の計算はまさしく比の計算の世界。

濃度なんて割合そのものだ。

15%の食塩水をつくります。食塩6gで何gの食塩水ができますか?

とか

1個の製品をつくるのに材料が15g必要です。225gの原料で何個の製品が作れますか?

小学校ぐらいからやるこれですね。

これ、苦手な子が本当に多い。

小学生、遅くとも中学生までにクリアしてないと、むしろ高校生になって辛くなる。

高校生にもなると、不思議とこれが小学生ほどすっと入らなくなる。

発達に伴ってちょっとアタマが固くなるのかな?

高校生だと方程式で押し切るしかなくなる(それは日々指導してますが)ので、是非しっかりやって欲しいな。


英語と私

今では一端に英語やってますし、なんなら化学の世界では英語でやりとりもして文章も書いてました。

でも、高校時代には学校の先生に、

「河井なぁ、お前、英語できんな。英語できるようになるには1回死んで生まれ変わった方が早いわ!」

と授業中に吐き捨てられたくらいです。(今だとえらいことになりますが、昔なんてこんなもんwww)

とはいえ、そこそこのセンターの英語は取りましたけど、高2でやってたのが英文解釈。週10時間くらいはやったかな?

辞書引きながら構文を考えひたすら日本語にする。

この作業しかしてなかったけど、それだけでセンター英語は点数は2倍になった。

僕は英文解釈は読解の土台であり英文法の究極の学習だと思ってる。

使う文法を適用することを真剣に考える。読解にして究極の文法学習。

読むことに英文法使わなくて何の英文法?だから読むことに使えよ。頭も使えよ。

そういうやり方。それで土台ができたら考えを綴る英作文にも、リスニングやスピーキングにも意味が出る。

4技能というけど、その土台にあるのが英文法で、それなしにコミュニケーションとか言っても意味がない。

だって僕たち、日本人なんだもの!

なお、この土台で化学の専門書を英語で学び、英語で書いてる論文を読みながら化学してるだけで、センターもあっさり190取れるようになり、人に英語を教えるくらいにはなりましたよ。

土台ができたら、後は使ってると英語はもっと育つのです。土台がないとダメだけど。

感覚で英語が捉えられない、とイマドキの英語に違和感を抱くなら、温故知新、classicな英語の取り組み方してみるのもひとつだよ。

騙されたと思って半年、やってごらんよ。