よりによってそれ蹴るか?このバカチンが!

というバカチンは僕のことでして(笑)

さっき電車から「爆裂個人塾長座談会閲覧所」でしゃべってしみじみと思い出したあのこと。もうあれから6年くらい経つんですね。

僕は最初のベンチャーを2年で辞めて、当時研究部署を作るべく共同研究を立てようとしていた大学の研究室のポスドクになった。

予算も何もないところに(だから産学連携の研究費熱を上げていたのだけど)ポスドクすることにしちゃったからこれはまずい!となって29歳にしてバイト探し。

その境遇で「何できる?」となって塾で働き始めた。そのチョイスも大阪の南は人が少ないから戦力として大事にされそうだけ。で、最初に電話くれたところに即決。

うん、考えなさすぎ。

その生活を3年やってると、学者以上に教えることの方が適性あるのもわかってきたし、教育の方がずっと楽しかった。その教室はガンガン高校生が増えて、ついてくる子もいて。

で運命の3年目。

3年で常勤ポストにつけなかったら、自分は向いてないと諦めようと思ってた。そこにその大学の常勤の特任講師の話があった。でもやっぱりこの子たちを放って辞められない、そう思って蹴った。(もちろん、実家の家計とか体調という理由がなかったわけではないのだけど)

この話すると10人が10人、アホやなんやと言ってくれます(笑)でも、今の楽しさを考えても間違ってない、正解!と思ってるけど。

ちょっとしたkawaiラボの、それより前の物語でした。


理数の塾だからこそ国語教育を真剣に

僕は理数の人間です。誰がどうあってもそう答えるでしょう。数学や化学、物理のセンスを褒めてくれる人は多いです。

でも、僕自身の葛藤として、数学や化学、物理の知識や感性(あるかどうか知らんけどw)を自分のアドバンテージだとは思いますが、僕をこの境遇に連れてきてくれたのはこれじゃない。

じゃあ僕をここまで導いてくれたのは何なのか?

それは言語論理の力。世でいうところの国語力というやつですね。なんでもかんでも国語に押し付けるな、と怒りだす国語の先生がいるのはさておき。

大量の情報から必要な情報を抜き取り、その中でロジックを構築する。ネタが理数ならその構築にはもちろんその知識が必要だけど、その知識を繋ぐのは必ずしも数式だけでない。やはりロジックを紡ぐ言葉なのだ。その言葉の力が弱いことは単純に今の成績でなく、受験の、ひいては高等学問をやる上での障壁にしかならないのだ。

学理を修めるためにはもちろん数式などもあるが、究極的には言語によって伝えられる論理の掌握が必須なのだ。数学であっても科学であっても理由説明に全く言葉が介在しないなんてことはあり得ない。そして、新しい発見や問題解決を伝えるのはやはり言葉なのだ。自分の業績はもちろん式や図に現れるけど、説明は言葉に依るしかない。言葉の力が弱いということは、即、研究の一線からの脱落を意味するのだ。

更にこの10年近く主戦場にしてきた大学受験の観点から考える。理系科目において、言語論理の追跡がセンター数学の目指すところであり、国公立大の2次試験の数学はむしろその論理を紡ぐところを見られていると考えられる。2次試験の理科では長大なリード文から情報を汲み取り処理に繋げたり思考に移すことを見ていると考えてもいい。センター理科にもその兆候が見てとれる。ただの選抜だ、という意見は置いておいて、高等学問への接続と関門として大学受験を考えるならこういうことだろう。

こういうことを真剣に考えたとき、理系科目の専門的な素材で言語論理をやる前に育てておきたいのが国語力、特にジャンルで言えば評論文の読解。言語論理の結晶だろう。もちろん、より叙情的な文章にも素養がある方がいいだろうし、文化的な深みを伴う人物への成長に古典を活かすというのはあるだろう。ただ、今は論点がぼやけるので文学的素養の面については保留する。

理数教育における言語論理の力についてはこういう問題意識とともに過ごしてきた。そしてラボ開設の今、集う生徒たちの喫緊の課題としての国語、そして今後の言語論理の力の養成を図りたくて、国語の専門家として河井が信頼する方に来てもらった。点数はもちろん取れるようにしてあげたい。でもそれだけじゃない。本当の言語論理の力を持たせて社会で羽ばたかせられるように育てていきたい。

大学受験kawaiラボの国語教育、いや、言語論理教育はまだまだ始まりのとき。きっと言語論理と数理の力が合わせもつ、そういう生徒が社会で輝くことを目指していくことをここに宣言します。


子どもの受験はリベンジでなく

去年、Twitterでも紹介したのですが、こんなことを西大和学園の先生が仰ってたそうです。

「お母さんやお父さんの今までの人生におけるリベンジを、子どもの人生でしようとしないでください。ご自身のリベンジはご自身の人生で行ってください。子どもの受験は、子どもの人生です。子ども自身に闘わせてあげてください。」

家族もですし僕ら塾講師もですが、ついつい、本人のためにと思って考えてることが、価値観押し付けてるかも…?になってるときがありますね。

押しつけにならないように気をつけながらも、常に生徒たちの未来のために、を考え続けていきます。


化学屋さんから割合や比の話をしよう

この間、僕も参加している「爆裂個人塾長会議」でも話題になったのですが、割合とか比の話って本当に大切。

僕は化学の人間なので化学のことをすぐに言い出しますが、化学反応式の計算はまさしく比の計算の世界。

濃度なんて割合そのものだ。

15%の食塩水をつくります。食塩6gで何gの食塩水ができますか?

とか

1個の製品をつくるのに材料が15g必要です。225gの原料で何個の製品が作れますか?

小学校ぐらいからやるこれですね。

これ、苦手な子が本当に多い。

小学生、遅くとも中学生までにクリアしてないと、むしろ高校生になって辛くなる。

高校生にもなると、不思議とこれが小学生ほどすっと入らなくなる。

発達に伴ってちょっとアタマが固くなるのかな?

高校生だと方程式で押し切るしかなくなる(それは日々指導してますが)ので、是非しっかりやって欲しいな。


英語と私

今では一端に英語やってますし、なんなら化学の世界では英語でやりとりもして文章も書いてました。

でも、高校時代には学校の先生に、

「河井なぁ、お前、英語できんな。英語できるようになるには1回死んで生まれ変わった方が早いわ!」

と授業中に吐き捨てられたくらいです。(今だとえらいことになりますが、昔なんてこんなもんwww)

とはいえ、そこそこのセンターの英語は取りましたけど、高2でやってたのが英文解釈。週10時間くらいはやったかな?

辞書引きながら構文を考えひたすら日本語にする。

この作業しかしてなかったけど、それだけでセンター英語は点数は2倍になった。

僕は英文解釈は読解の土台であり英文法の究極の学習だと思ってる。

使う文法を適用することを真剣に考える。読解にして究極の文法学習。

読むことに英文法使わなくて何の英文法?だから読むことに使えよ。頭も使えよ。

そういうやり方。それで土台ができたら考えを綴る英作文にも、リスニングやスピーキングにも意味が出る。

4技能というけど、その土台にあるのが英文法で、それなしにコミュニケーションとか言っても意味がない。

だって僕たち、日本人なんだもの!

なお、この土台で化学の専門書を英語で学び、英語で書いてる論文を読みながら化学してるだけで、センターもあっさり190取れるようになり、人に英語を教えるくらいにはなりましたよ。

土台ができたら、後は使ってると英語はもっと育つのです。土台がないとダメだけど。

感覚で英語が捉えられない、とイマドキの英語に違和感を抱くなら、温故知新、classicな英語の取り組み方してみるのもひとつだよ。

騙されたと思って半年、やってごらんよ。


お絵描きしないヤツに人権はない

これ、ラボの標語なんです。

前職からずっと掲げてるんですけど、数学や物理、化学で図をちゃんと描いてから考えること、それを強く訴えるのです。

そして僕は言うのです。

目ん玉に仕事をさせて、頭の中のメモリを解放して、頭は頭にしかできないことをさせろ。

そうすれば、頭だけでやろうとするよりはるかにいろんなことができる。

だから、図を描こうとしないのは論外。

質問に答えるにも値しない。

だから言うのです。この言葉を。

さぁ、ご唱和ください。


大阪の地下鉄はデスマッチ会場だった

朝のお勤めには地下鉄御堂筋線を使うんですけど、これが殺人ラッシュなんですよ。

電車がホームから出てる途中で次の電車の到着アナウンスが流れるくらいだけど殺人ラッシュ。

で、前日大阪に泊まったのでいつもよりカバンが1つ多い。

ギュウギュウの車内で座席シート端に立ち位置を確保した。

リュックがデカいので下ろして、そこにカバンひとつのせて持って乗ってたのですよ。

途中駅。背後を通って通路のお客さんが降りる。まぁこれは普通。

そこでなんと!

座席から僕の前にタックルして通っていくリーマンが!

背後を空ける努力で前に突っ込まれたらそりゃあ痛いですわな。

電車が動き出してから見ると、カバンがひとつない!

どうやら蹴り出されてしまったようだ…。

さようなら、僕の昨日着た服…。

地下鉄御堂筋線にお乗りの際は、武装してお臨みください。


自由度を上げて不自由になる子たち

僕たちなどは地域の塾として,色々な子たちと関わっているわけです。

そうすると,自由自在な解法で奔放に考えさせる,そういう学問的には正しい姿勢では成績が上がらないこと,むしろ苦戦することがあります。

一部には,そういう子たちには道を変えるべきという意見もあるようですが,僕はそれはしたくない。希望をなるべく叶えられるようにしていきたい。

じゃあどうするのか?

僕はわざと1通り(ただし,汎用性だけは高い)解法を徹底させてしまいます。

これは学問的な本道ではないという批判もあると思います。

でもね,現実的にその子の道を切り開くには,自由に溺れ死んでしまいそうな子に,正しいからだけで自由の海を泳ぐことを強要していいのか?

僕は受験という壁を越える,という一点においては時に不自由さで道を整える手はずをつけるのも決して悪くないと思いますよ。

自由にやることで不自由になる,不自由にすることで動き出せる。

そんなことがあるんだってこと,もう少し知ってもらえて,少しでも前に進める人が増えればいいなと思います。


分かっているのか知っているのか?

最近の僕のテーマのひとつがこれ。

問題解説なんかすると、「なんで先生こんなん思いつくん?」と聞かれることありますよね。

半分は茶化して、半分は本気で

「それはなぁ…、知ってるからや!」

と返してみたりするのです。

実際これ難しくて、自分でも分かっているのか知っているのか判別がつかんのですよ。

どこからが分かってるでどこからがただ知ってて真似してるなのか。

ここに明確な解を与えることができないまま今に至ります。

でも、最近ちょっと考えが変わってきたかな。

分かっているのか知っているのか、判別がつかないくらいやり込んでいればええんや!

というわけで、明日からもグイグイやり込み度上げていきましょうね。


あなりてぃくす導入

最近,爆裂個人塾長会議で聞いてたGoogle Analyticsなるものを導入しました。

こんな感じで出ます。

まだ始めたばかりでデータも少ないですし,閲覧もまだまだですが,こうやって見てもらえる様子が見えると,また書く気持ちも変わってきますね。

新しいピークトップが産みだせるようにがんばろ。