センター試験は言語論理との戦い

明後日は河合塾のセンター試験プレテストなので,やっぱり気持ちがセンターに向かう今週です。弾みがつくように,もありますが,後2ヶ月弱で取り組むべき自分の課題が見えてくればいいですね。

さて,センター試験(もちろんその模試もですが)は言語論理との戦いです。言語論理との戦いであるがゆえに,kawaiラボは国語を通じた言語論理の向上を1つのテーマに据えています。

さてさてセンター試験,数学も流れで引っ張っていく形式が非常に多いです。時に記述よりも点数が取れない,と嘆く子まで出てきますね。センターは教科書レベルという触れ込みから考えると,意外と思われるかもしれませんが,昨今のセンター型の問題は随分と手が込んでいます。僕が解いても,20年前の1.5倍くらいかかるくらいは難しくなっています。

で,先の記述より点が取れない,という場合,科目として問題を解く力には問題がないわけです。この場合はセンター型の誘導に乗れていないことが多い。その乗り方はもちろん練習もありますが,言語論理を意識することで改善が見られます。

また,化学だと少し見慣れない設定がよくあります。その設定を解きほぐして処理に向かわないといけないのですが,その時に必要な力が言語論理です。パターンだけでクリアしようとすると点をどんどん落とします。また,センター(私立マークもですが)正誤問題が多く出題されます。そのときの整合性のチェックにも言語論理の意識が役に立ちます。漠然とまぁ合ってるでしょ,と選んでひどい目にあうことがしばしばです。

言葉に対する意識をもつ,ということは評論文のように直接的に点数に直結しているわけではありません。ですが,その意識が欠けていると,知識や手法の習得以上に点を落としていく,それがセンター試験だと思います。単純な処理力テストではありませんよ。それを意識して,プレテスト,直前の演習,本試験に臨んでもらえればいいかな,と思います。


賢くなる演習ノート

こんにちは、大学受験kawaiラボの河井です。では早速今日のお題。

学力がつく数学の勉強ってどうやるんですか?

これは高校数学の勉強の上ではかなり重要な命題であると思われます。数学ができるようになるためには,日頃からの演習によるトレーニングが欠かせないのですが,案外,正しくトレーニングしてるね,と言える人は多くありません。

河井が考える数学の勉強の秘訣は,日々の演習ノートの書き方にあると思っています。多くの子のノートが計算式と答えとそれの○×に終始しています。それでは数学の思考はおろか,記述の力も何も育たないのです。ではどんなノートになるべきか?問題を実際に解くノートの例を示します。

1問だけコピーして河井が解いたものです。ちょっと半分に綺麗に分けれていませんが,2段にして上からきちんと書いています。単純な計算ドリルのような問題は除いて,全ての問題をこのような記述式の書き方で解いて記述する。

ではなぜこの書き方が良いのか?

それは思考や論理の流れを見直してもきちんと追うことができる,もちろん,このように書けば他の人にも伝えられる,つまり,記述がいつものこと,になっていくわけである。その積み重ねが数学の論理の経験の積み重ねになり,思考力の土台ができるものと思っている。

僕自身,この取り組み方でサクシード(ワーク),赤チャート,スタンダード数学演習IAIIB,オリスタ数学演習III,過去問で十分に合格点を取ることができた。このノートでたくさんの子が時間はかかるけど数学の改善に至った方法。魔法のような方法ではないけど。大学受験kawaiラボで演習を課すときは,この取り組み方で1枚1枚,高1から答案をチェックする。だから成績が伸びるのだと思っている。

センターは別物でしょ?という人がいる。多少,簡略化は必要だが,やはりきちんと書きながらそれを省力化することでベストスコアにしていくことが必要だと思う。そうしないと,ただの作業化やテクニックに走ろうとして行き詰まり,伸び悩みの原因になってしまう。これも,僕がサンプルで解いたものを提示しておこう。

こんなに書いたら時間がない!という人は根本的にマークの取り組み方を間違えていると思う。きちんと流れを追いかけながら試行して初めてマークの高得点が得られる。そういうものだと思う。

本当に力のつくやり方,というものは労力を要するものである。学問に王道なしともいう。最後に化学の新演習にも書かれている次の言葉を記して締めておきたい。

「苦痛なしには勝利なし,荊を避けては王座なし」


環境の力を甘く見るな-進学校が進学校たる理由

昨日、「爆裂個人塾長座談会閲覧所」でも話してたのですが、進学先でどう人生が変わるかというお話しです。

最初にこのスクショを見てもらいたい。これは僕の母校の進学実績です。

定員は360人だったはず(320に減ったっけ…?)で、学年の1割以上が現役で京大、阪大筆頭に旧帝大に、4分の1以上が国公立大学に行くような、そういう学校です。同窓会誌によるとセンターの学年平均が75%ですからね、平均越えれば関西だと大阪市大あたりがきっちりボーダー、もう少しで神戸大だとかに届くわけです。

そういう学校なので、さぞかし素晴らしい授業が!と思われるかもしれませんが、そういうわけではないです。これは公立だからというわけでなく、私立、それも中高一貫の私立でもそう。カリキュラムはまぁ早いですし、ウィークリーテストや課題などの負荷はでかいです。普通の高3がやるようなことを高2で通り抜けたりしてますから。僕もそうだった。

でもね、そこじゃないんですよ。上から落とされてきたものじゃないんですよ。

それは「強烈な横への意識」。周りに対して遅れを取りたくない、落ちこぼれたくない、あいつに負けたくない、そういった意識が早期から起こりやすい。これが一番強烈に効いてくる。

いや、だって全国偏差値60越えして、校内偏差値が50いかない、なんて天狗になれやしない。前回70台でもすぐ隣にもっと上がいる。その環境でギヤを下げられるか?まぁ下げられないでしょうね。事実、校内で97とっても下げられなかった。(97は分布のマジックでしかないのですが、普段は70台でしかない)

僕はこの環境の力を「環境補正」と呼んでいる。会社員時代はほぼ任せっぱなしだったけど、高校受験も見ていた。そのときの力と3年後の力、明らかにひっくり返っていることがある。それは3年間をどう過ごしたかに依存するわけだけだが、追い越した側の特別な意識であることは滅多にない。本人たちは周りに合わせながらただただ普通に取り組み過ごしてきただけなのだ。本当にそれだけのことが多い。

もちろん、そこに自覚が乗っかっていけばより上にも行けるし、環境補正が小さいところでも上に行くことができる、それはもちろんそう。

じゃあ環境補正が小さいときにどうするのか?そこで塾の出番ではなかろうか?学校以外の場に環境補正の力を求めるのである。他の学校の、特に超進学校の子の意識に触れ、その意識に合わせていくのだ。そういうことができる塾に行くことをオススメする。

どの選択にせよ、子どもが伸びていきよりよい人生をつかむもの。やりたいことによっては偏差値などで測る序列の意味なんて簡単に崩れるわけですが、あくまでも大学受験、上位校受験を目指す、という立場からお送りしました。願わくばみんながみんな、よい進路選択とその実現を願って止みません。


教務力って一口には言うけど

言葉の定義からしてわからん!というのがチラシとかホームページ見てる人の意見じゃないかと思います。なので、kawaiラボは大学受験ではこれをやるのが教務力、と定義して、勝手に押しつけていきましょう(笑)

端的には「生徒ひとりひとりをトータルプロデュースするのに必要な力」を教務力と考えます。それには何が必要か、解体していけば教務力が定義できるでしょう。

まずそもそもの科目の力。

科目の入試問題が旧帝大でも解けるなんていうのは当たり前(もちろん、たまには苦労するけど)だし、その問題を解説できるのも当たり前。これができたら授業できてるという程度なら相手じゃない。入試問題に至る前に、学校でやるような基礎理論の構築から授業できるほどの理解か?そして、それを目の前の生徒に合わせて話し、その子のハードルを越えられるようにできるのか?これができたらやっと、「教えるだけはできる」という程度です。専門科目がこの程度じゃkawaiラボじゃ戦力外。

少なくともkawaiラボから多く受ける学校の大学入試問題については形式などを把握し、生徒の解答能力や思考タイプから合格最低点をクリアできると期待できるかどうかを判別できるか?これは偏差値ランキングと模試を見合わせるんじゃない。生身の感覚で捉えられるかどうかである。偏差値が見合っていても絶対無理、となることもあるし、偏差値ほど合わせられないこともないこともある。そこまでできて初めて1科目を見れるというのがkawaiラボで科目を担当するということである。

そして、河井筆頭にこれが複数科目でできるのが専任であるということだ。理系なら数学と理科2つと英語は、文系なら英語国語と社会1科目は基本条件ですね。専門性の高まりによってこの辺の基準は変わることはあるでしょうが、街の塾をやるということはこれくらいの力はないと難しい。単科の専門性のマンパワーで押し切ることができないから尚更。

科目ができるだけでは地域の塾としてはダメで、学部、学科で何が学べるか、どういう就職があり得るのか、大学のその後まで見据えて進路探しから伴走できるかどうか。必要ならば大学の専門の違いを検討できるか?その手間を惜しまずかけられるか。ひとりひとりの人生を考えられなきゃ、塾のために受験させることになってしまうからこれはある意味で授業どうこうより重い命題ですよ。

更に受験日程を作れること。そんなの自分でやらせろよ、という意見があるのは承知の上ですけど、受験生が入試の偏差値と科目の一覧をめくって時間を浪費するのを本当にいいと思ってるの?絶対的なものでもない目安にしかならない偏差値でこれならいけるとか考えるのが社会勉強?僕はこの文化を学校なり予備校が労力を生徒に押しつけてるだけと断じているから、軸となる上位希望を基に滑り止めを日程とともに提案するのはラボの義務と考えている。はっきり言って、そんな紙の上のことだけで時間を浪費させるくらいなら、壁を越える力をつけることに時間を使わせようよ。

もちろん、これらを支えるためにはコミュニケーション能力も必要だし、それを支える観察力、僕は視えるとか言ってるけど、が必要。ライトなところから深層心理まで視えるとか。「私、そんなこと思ってる素振りありましたか?」って言われるくらいの眼力はある方がいい。でもコミュニケーション能力って大きな声で言っちゃうと上述のことができないパリピ的なタイプが大きな顔をしちゃう世の中だから、持ってる力を活かすための付加能力と思っているくらいがちょうどいい(笑)

寝ている間の「爆裂個人塾長会議」で話してたことのログを見ながら思ったことを連ねてみましたが、これがkawaiラボが教務力と信ずるところです。


壁の向こう側の勉強

ちょっとこいつ,何言ってるかわからない。そう言われることを覚悟して書きますね。

旧帝大とか東工大,一橋大に向けた勉強,私立でいうなら早慶とか。そういったところを目指す勉強は壁の向こう側に至っていないと苦しいな,と感じます。その壁の向こう側の勉強ができれば,高校入試でも大阪のC問題とか,あと,神奈川の特色入試や東京の自校作成などの高得点突破にも通じるところがあると思います。

僕は理数系の人間なので,数学(他科目も変わらないけど,話しやすい気がするので)で話を進めよう。

数学の勉強はまずは定義を知り,これまでの知識と定義から導かれる定理や性質を学ぶ。そして,4stepなどのワークでその基本的な運用をつかむ,その発展形をチャートや受験用の問題集で取り組んでやり方をマスターしていく…。

非常にザクッとしてますが,数学の勉強といえばおおよそこのイメージを持つ人が多いと思いますし,この流れで勉強してる人が多いことでしょう。

でも,いずれ頭打ちがきます。頭打ちなんて来ないぞ,という人は実は知らず知らずのうちに壁を超えている場合です。

頭打ち,と言いましたが,センターでそれなりに高得点が取れますし,上位大学にスッと入れることの方が多いです。ただ,その先があるということです。

それは1つ1つの原理や法則をどういうことか,と深く考え,ただのツールと解き方にすることなく取り組むというもの。そして,1つ1つの問題を自分の手で解きほぐし,どのやり方を,ではなく,何ができるだろう,これをやってみようかなとチャレンジしていくトライアンドエラーの学び。

理科ではこれに加えて現象や実験を記述した文章を読み込み,その情報を整理・抽出し,何ができるか考える,言語論理と科学的思考の融合が必要になります。ただただ公式や法則の使い方,に走っていったのではどうしてもこの手の問題に太刀打ちできない。

使い方は使い方で必要,原理原則だけでいきなり使えない人の方が多い。そこに異論はないですし,使い方をしっかり見せて,それをモノにしないといけない,それは前提。でもそれだけではない,そういう勉強に踏み込んでいって,そして,視界が開けてようやっとたどり着く境地。

そんな勉強に取り組んでいけるようにしていきたいですね。


塾で人生が変わった卒業生の話

人生を変えるために塾を探す人は少ないけども,そこでの出会い,変化が人に変化をもたらすことはいっぱいある。明らかに変わった!という子もいれば,非常にナチュラルな変化なので,本人さえ自然だと思っていることもある(思い返せば…的な変化ですね)。今日はその中でも劇的すぎる変化を今尚続けている子の話を。

その彼は卓球がとても強く,なんかの大会で優勝したりするくらい,なんなら卓球だけで大学に行けるくらいだった。でもスポーツで大学に行くと,やはり故障とかした時に在学し続けにくいらしい。それで,自力での大学進学を目指した勉強に切り替えることになった。

彼は中堅どころの高校に行ってたのだけど,「どうやって入ったの?」と言いたくなるくらいの惨状だった。そりゃあ卓球漬けでクラブチームまでやってればそりゃそうか,とも思うけど。(後で聞いたらその高校に入ったことも周りは驚くくらいだったらしい。)高校入試偏差値50は大学受験偏差値40と同じ,とか言われたりするけど,英数とももう10ずつ少ない感じだった。

ただ,生物だけはすこぶる相性が良かったのか,非常に楽しそうにやっていた。生物ともう1科目とか,生物のみの受験とかあるのも知ってたので,「生物,死ぬ気でやって偏差値60にしろよ,そうしたら自己推薦文とか考えてやろう」と煽ってみたのだった。1科目で面接付きはちょっと厳しいかも,と思いつつ,これで引っ張れば生物数学の2科でなんとかなれば,という気持ちであった(なお,英語は中1〜2レベルからやり直さなければならず,絶望的なので事実上放棄)。

どうなることやら,と思っていたらあれよあれよと生物だけは成績が上がり,生物だけは国公立上位クラスと競っていけるくらいまで育った。覚えるためなら整理ノートを10回でもやり,ワークを解き続け,おかげで他の科目のせいで留年しかけるくらいやってた。もはや執念。その気合いに免じて,ヒアリングの末,99%清書以外僕が書いたと言って過言でない自己推薦文とともに出願した。

生物のテストはできたのであろう,なんとその大学の1次試験を突破したのだ。滑り止めの生物数学2科は箸にも棒にもかからなかったのに。そこでサイエンスとしての受け答えを教え,何があっても開き直って,力が足りないと言われたら「気合いで埋めます!」と答えろ,と言い含め,元気よく出陣させた。

面接でいろいろやり取りして,「この自己推薦文,自分で書いてないやろ?笑」と突っ込まれたらしい。そのとき彼は,「塾で河井先生という方に書いてもらいました!そちらの先生とは同期とのことです!」と開き直ったらしい。こりゃあ落ちるよな(苦笑)…。

ところが,合格!

生物の偏差値=英語の偏差値+数学の偏差値,のような彼で留年も危惧されたのですが,なんだかんだいって生物研究に精を出しています。中学生より英語ができなかった彼が,英語の論文を読みながら研究するようになるなんて…,おじさん泣いちゃうぞ,みたいな感じです。論文も一流誌に掲載されるかも,とのことですし,大学院進学も勧められるほどになっていると聞いています。

こんな風に人生を変えることもある大学受験への道,全力で取り組むのは悪くないと思いませんか?


よりによってそれ蹴るか?このバカチンが!

というバカチンは僕のことでして(笑)

さっき電車から「爆裂個人塾長座談会閲覧所」でしゃべってしみじみと思い出したあのこと。もうあれから6年くらい経つんですね。

僕は最初のベンチャーを2年で辞めて、当時研究部署を作るべく共同研究を立てようとしていた大学の研究室のポスドクになった。

予算も何もないところに(だから産学連携の研究費熱を上げていたのだけど)ポスドクすることにしちゃったからこれはまずい!となって29歳にしてバイト探し。

その境遇で「何できる?」となって塾で働き始めた。そのチョイスも大阪の南は人が少ないから戦力として大事にされそうだけ。で、最初に電話くれたところに即決。

うん、考えなさすぎ。

その生活を3年やってると、学者以上に教えることの方が適性あるのもわかってきたし、教育の方がずっと楽しかった。その教室はガンガン高校生が増えて、ついてくる子もいて。

で運命の3年目。

3年で常勤ポストにつけなかったら、自分は向いてないと諦めようと思ってた。そこにその大学の常勤の特任講師の話があった。でもやっぱりこの子たちを放って辞められない、そう思って蹴った。(もちろん、実家の家計とか体調という理由がなかったわけではないのだけど)

この話すると10人が10人、アホやなんやと言ってくれます(笑)でも、今の楽しさを考えても間違ってない、正解!と思ってるけど。

ちょっとしたkawaiラボの、それより前の物語でした。


理数の塾だからこそ国語教育を真剣に

僕は理数の人間です。誰がどうあってもそう答えるでしょう。数学や化学、物理のセンスを褒めてくれる人は多いです。

でも、僕自身の葛藤として、数学や化学、物理の知識や感性(あるかどうか知らんけどw)を自分のアドバンテージだとは思いますが、僕をこの境遇に連れてきてくれたのはこれじゃない。

じゃあ僕をここまで導いてくれたのは何なのか?

それは言語論理の力。世でいうところの国語力というやつですね。なんでもかんでも国語に押し付けるな、と怒りだす国語の先生がいるのはさておき。

大量の情報から必要な情報を抜き取り、その中でロジックを構築する。ネタが理数ならその構築にはもちろんその知識が必要だけど、その知識を繋ぐのは必ずしも数式だけでない。やはりロジックを紡ぐ言葉なのだ。その言葉の力が弱いことは単純に今の成績でなく、受験の、ひいては高等学問をやる上での障壁にしかならないのだ。

学理を修めるためにはもちろん数式などもあるが、究極的には言語によって伝えられる論理の掌握が必須なのだ。数学であっても科学であっても理由説明に全く言葉が介在しないなんてことはあり得ない。そして、新しい発見や問題解決を伝えるのはやはり言葉なのだ。自分の業績はもちろん式や図に現れるけど、説明は言葉に依るしかない。言葉の力が弱いということは、即、研究の一線からの脱落を意味するのだ。

更にこの10年近く主戦場にしてきた大学受験の観点から考える。理系科目において、言語論理の追跡がセンター数学の目指すところであり、国公立大の2次試験の数学はむしろその論理を紡ぐところを見られていると考えられる。2次試験の理科では長大なリード文から情報を汲み取り処理に繋げたり思考に移すことを見ていると考えてもいい。センター理科にもその兆候が見てとれる。ただの選抜だ、という意見は置いておいて、高等学問への接続と関門として大学受験を考えるならこういうことだろう。

こういうことを真剣に考えたとき、理系科目の専門的な素材で言語論理をやる前に育てておきたいのが国語力、特にジャンルで言えば評論文の読解。言語論理の結晶だろう。もちろん、より叙情的な文章にも素養がある方がいいだろうし、文化的な深みを伴う人物への成長に古典を活かすというのはあるだろう。ただ、今は論点がぼやけるので文学的素養の面については保留する。

理数教育における言語論理の力についてはこういう問題意識とともに過ごしてきた。そしてラボ開設の今、集う生徒たちの喫緊の課題としての国語、そして今後の言語論理の力の養成を図りたくて、国語の専門家として河井が信頼する方に来てもらった。点数はもちろん取れるようにしてあげたい。でもそれだけじゃない。本当の言語論理の力を持たせて社会で羽ばたかせられるように育てていきたい。

大学受験kawaiラボの国語教育、いや、言語論理教育はまだまだ始まりのとき。きっと言語論理と数理の力が合わせもつ、そういう生徒が社会で輝くことを目指していくことをここに宣言します。


子どもの受験はリベンジでなく

去年、Twitterでも紹介したのですが、こんなことを西大和学園の先生が仰ってたそうです。

「お母さんやお父さんの今までの人生におけるリベンジを、子どもの人生でしようとしないでください。ご自身のリベンジはご自身の人生で行ってください。子どもの受験は、子どもの人生です。子ども自身に闘わせてあげてください。」

家族もですし僕ら塾講師もですが、ついつい、本人のためにと思って考えてることが、価値観押し付けてるかも…?になってるときがありますね。

押しつけにならないように気をつけながらも、常に生徒たちの未来のために、を考え続けていきます。


化学屋さんから割合や比の話をしよう

この間、僕も参加している「爆裂個人塾長会議」でも話題になったのですが、割合とか比の話って本当に大切。

僕は化学の人間なので化学のことをすぐに言い出しますが、化学反応式の計算はまさしく比の計算の世界。

濃度なんて割合そのものだ。

15%の食塩水をつくります。食塩6gで何gの食塩水ができますか?

とか

1個の製品をつくるのに材料が15g必要です。225gの原料で何個の製品が作れますか?

小学校ぐらいからやるこれですね。

これ、苦手な子が本当に多い。

小学生、遅くとも中学生までにクリアしてないと、むしろ高校生になって辛くなる。

高校生にもなると、不思議とこれが小学生ほどすっと入らなくなる。

発達に伴ってちょっとアタマが固くなるのかな?

高校生だと方程式で押し切るしかなくなる(それは日々指導してますが)ので、是非しっかりやって欲しいな。